電車も、自動車も、自転車も、オートバイも、バスも、トラックも、人力車も皆止まれッ……。紳士も、淑女も、モガも、モボも、サラリマンも職業婦人も、ブルもプロも、掏摸《すり》も、巡査も動いてはいけない。
 ……諸君はタッタ今、非常な危険と直面しているのだ。
 ……諸君は現在タッタ今、脳髄で物を考えつつ歩いているだろう。……その脳髄の判断力でもって交通巡査のゴー・ストップを聞き分け、旗振りの青と赤を見分け、飾窓《ショーウインド》の最新流行を批判し、ポスターに新人の出現を知り、夕刊記事の貼出しに話題《トピック》を発見し、掏摸を警戒し、債権者を避け、イットの芳香を追跡しつつ……イヤが上にもその脳髄の感触を高潮させつつ、文化人のプライドをステップしている……つもりでいるだろう。
 ……それが危険だと云うのだ。それが非常だと警告するのだ。……脳髄の非常時……。

 ……見よ。聞け。驚け。呆《あき》れよ……
 ……現代二十億の人類は悉《ことごと》く、諸君と同様の阿呆である。郵便局に自分の引越し先を尋ねに行く頓馬《とんま》である。電話口でこちらの番号を怒鳴る慌て者である。『脳髄』を『物を考えるところ』と錯覚している低能児である。
 そうして、そんなトンチンカンな幻覚錯覚を得意然と肩の上に乗っけて、その錯覚のタッタ一つを唯一無上のタヨリにしつつ『アタマは最上の、最後の資本』『現代はアタマのスピード時代』という倒錯観念の競争場裡に、かくも夥《おびただ》しい電車、自動車、オートバイを飛ばせて、夜を日に継いで人類文化を、ゴチャゴチャの悶絶界に追い込みつつある、諸君自身の脳髄である。
 とてもケンノンで見ていられないではないか。

 ……見よ。聞け。驚け。呆れよ……。
 アンポンタン・ポカンのスローガンだ。
 人類文化の罵倒だ。
 脳髄文明の覆滅だ。
 唯物的科学思想の建てかえ建て直しだ。

 ポカンは宣言する。
 ……『物を考える脳髄』はにんげん[#「にんげん」に傍点]の最大の敵である。……宇宙間、最大最高級の悪魔中の悪魔である。……天地|開闢《かいびゃく》の始め、イーブに智慧の果《このみ》を喰わせたサタンの蛇が、更に、そのアダム、イーブの子孫を呪うべく、人間の頭蓋骨の空洞に忍び込んで、トグロを巻いて潜み隠れた……それが『物を考える脳髄』の前身である……と……。

 ……眼を開け……。
 ……この戦慄すべき脳髄の悪魔振りを正視せよ。
 ……そうして脳髄に関する一切の迷信、妄信を清算せよ。

 人間の脳髄は自ら誇称している。
『脳髄は物を考える処である』
『脳髄は科学文明の造物主である』
『脳髄は現実世界に於ける全智全能の神である』
 ……と……。
 脳髄はこうして宇宙間最大最高級の権威を僭称しつつ、人体の最高所に鎮座して、全身の各器官を奴僕《ぬぼく》の如く駆使している。最上等の血液と、最高等の営養物を全身から搾取しつつ王者の傲《おご》りを極めている。そうして脳髄自身の権威を、どこまでもどこまでも高めて行く一方に、その脳髄の権威を迷信している人類を、日に日に、一歩一歩と堕落の淵に沈淪《ちんりん》させている。
 その『脳髄の罪悪史』のモノスゴサを見よ。

 吾輩……アンポンタン・ポカンは、アラユル方向から世界歴史を研究した結果、左の如き断定を下すことを得た。
 曰《いわ》く……脳髄の罪悪史は左の五項に尽きている……と……。
 『人間を神様以上のものと自惚《うぬぼ》れさせた』
 これが脳髄の罪悪史の第一ページであった。
 『人間を大自然界に反抗させた』
 これが、その第二ページであった。
 『人類を禽獣《きんじゅう》の世界に逐《お》い返した』
 というのがその第三ページであった。
 『人類を物質と本能ばかりの虚無世界に狂い廻らせた』
 というのがその第四ページであった。
 『人類を自滅の斜面《スロープ》へ逐い落した』
 それでおしまいであった。

 事実は何よりも雄弁である。
 医学の歴史を繙《ひもど》けばわかる……。
 人間の脳髄というものを、初めて人間の屍体の中に発見したのは西洋医学中興の祖と呼ばれている大科学者ヘポメニアス氏であった。
 ところがその近代科学の泰斗《たいと》ヘポメニアス氏の偉大なる脳髄は、頗《すこぶ》る大胆巧妙を極めたトリックを使って、自分が発見した死人の脳髄の機能を、絶対の秘密裡に封じてしまったものである。
 すなわちヘポメニアス氏の脳髄は『俺の正体がわかるものか』といわむばかりに、灰白色《はいいろ》の渦巻きをヌタクラせている『死人の脳髄』と、ヘポメニアス氏自身の毛髪|蓬々《ぼうぼう》たる頭蓋骨の中の『生きた脳髄』とを睨み合わせて、あらゆる推理の真剣勝負を開始させたのだ。
 ……ハテ。これは一体、何の役に立つものであろう。造化の神は何の
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