浪の音と一所に、洪水のように眩《まぶ》しく流れ込んでいる。その中に並んで突立っている若林博士の、非常に細長いモーニング姿と、チョコナンとした私の制服姿とは、そのままに一種の奇妙な対照をあらわして、何となく現実世界から離れた、遠い処に来ているような感じがした。
その時に若林博士は、その細長い右手をあげて、部屋の中をグルリと指さしまわした。同時に、高い処から出る弱々しい声が、部屋の隅々に、ゆるやかな余韻を作った。
「この部屋は元来、この精神病科教室の図書室と、標本室とを兼ねたものでしたが、その図書や標本と申しますのは、いずれもこの精神病科の前々主任教授をつとめていられました斎藤寿八《さいとうじゅはち》先生が、苦心をして集められました精神病科の研究資料、もしくは参考材料となるべき文書類や、又はこの病院に居りました患者の製作品、若《もし》くは身の上に関係した物品書類なぞで、中には世界の学界に誇るに足るものが尠《すくな》くありませぬ。ところがその斎藤先生が他界されました後《のち》、本年の二月に、正木先生が主任教授となって着任されますと、この部屋の方が明るくて良いというので、こちらの東側の半分を埋めていた図書文献の類を全部、今までの教授室に移して、その跡を御覧の通り、御自分の居間に改造してあのような美事な煖炉《ストーブ》まで取付けられたものです。しかも、それが総長の許可も受けず、正規の届《とどけ》も出さないまま、自分勝手にされたものであることが判明しましたので、本部の塚江事務官が大きに狼狽しまして、大急ぎで届書《とどけしょ》を出して正規の手続きをしてもらうように、言葉を卑《ひく》うして頼みに来たものだそうですが、その時に正木先生は、用向きの返事は一つもしないまま、済ましてこんな事を云われたそうです。
「なあに……そんなに心配するがものはないよ。ちょっと標本の位置を並べ換えたダケの事なんだからね。総長にそう云っといてくれ給え……というのはコンナ理由《わけ》なんだ。聞き給え。……何を隠そう、かく云う吾輩《わがはい》自身の事なんだが、おかげでこうして大学校の先生に納まりは納まったものの、正直のところ、考えまわしてみると吾輩は、一種の研究狂、兼誇大妄想狂に相違ないんだからね。そこいらの精神病学者の研究材料になる資格は充分に在るという事実を、自分自身でチャント診断しているんだ。……しか
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