れた。そうして、まだ自分自身が夢から醒め切れないような気持ちで、おずおずと背後《うしろ》をふり返った。
私の背後に突立った若林博士は、最前《さっき》からの通りの無表情な表情をして、両手をうしろにまわしたまま、私をジッと見下していた。しかし内心は非常に緊張しているらしい事が、その蝋石《ろうせき》のように固くなっている顔色でわかったが、そのうちに私が振り返った顔を静かに見返すと、白い唇をソッと嘗《な》めて、今までとはまるで違った、響《ひびき》の無い声を出した。
「……この方の……お名前を……御存じですか」
私は今一度、少女の寝顔を振り返った。あたりを憚《はばか》るように、ヒッソリと頭を振った。
……イイエ……チットモ……。
という風に……。すると、そのあとから追っかけるように若林博士はモウ一度、低い声で囁《ささや》いた。
「……それでは……この方のお顔だけでも見覚えておいでになりませんか」
私はそう云う若林博士の顔を振り仰いで、二三度大きく瞬《まばたき》をして見せた。
……飛んでもない……自分の顔さえ知らなかった私が、どうして他人の顔を見おぼえておりましょう……
といわんばかりに……。
すると、私がそうした瞬間に、又も云い知れぬ失望の色が、スウット若林博士の表情を横切った。そのまま空虚になったような眼付きで、暫くの間、私を凝視していたが、やがて又、いつとなく元の淋しい表情に返って、二三度軽くうなずいたと思うと、私と一緒に、静かに少女の方に向き直った。極めて荘重な足取で、半歩ほど前に進み出て、恰《あた》かも神前で何事かを誓うかのように、両手を前に握り合せつつ私を見下した。暗示的な、ゆるやかな口調で云った。
「……それでは……申します。この方は、あなたのタッタ一人のお従妹《いとこ》さんで、あなたと許嫁《いいなずけ》の間柄になっておられる方ですよ」
「……アッ……」
と私は驚きの声を呑んだ。額《ひたい》を押えつつ、よろよろとうしろに、よろめいた。自分の眼と耳を同時に疑いつつカスレた声を上げた。
「……そ……そんな事が……コ……こんなに美しい……」
「……さよう、世にも稀《まれ》な美しいお方です。しかし間違い御座いませぬ。本年……大正十五年の四月二十六日……ちょうど六個月以前に、あなたと式をお挙げになるばかりになっておりました貴方《あなた》の、たった一人のお従
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