それは二個《ふたつ》の丸い櫛《くし》が、私の頭の上に並んで、息も吐《つ》かれぬ程メチャクチャに駈けまわり初めたからであった……が……その気持ちのよかったこと……自分がキチガイだか、誰がキチガイだか、一寸《ちょっと》の間《ま》にわからなくなってしまった。……嬉しいも、悲しいも、恐ろしいも、口惜しいも、過去も、現在も、宇宙万象も何もかもから切り離された亡者《もうじゃ》みたようになって、グッタリと椅子に凭《も》たれ込んで底も涯《はて》しもないムズ痒《がゆ》さを、ドン底まで掻き廻わされる快感を、全身の毛穴の一ツ一ツから、骨の髄まで滲み透るほど感銘させられた。……もうこうなっては仕方がない。何だかわからないが、これから若林博士の命令に絶対服従をしよう。前途《さき》はどうなっても構わない……というような、一切合財をスッカリ諦らめ切ったような、ガッカリした気持ちになってしまった。
「コチラへお出《い》でなさい」
 という若い女の声が、すぐ耳の傍でしたので、ビックリして眼を開くと、いつの間にか二人の看護婦が這入《はい》って来て、私の両手を左右から、罪人か何ぞのようにシッカリと捉えていた。首の周囲《まわり》の白い布切《きれ》は、私の気づかぬうちに理髪師が取外《とりはず》して、扉の外で威勢よくハタイていた。
 その時に何やら赤い表紙の洋書に読み耽っていた若林博士は、パッタリと頁《ページ》を伏せて立ち上った。長大な顔を一層長くして「ゴホンゴホン」と咳《せき》をしつつ「どうぞあちらへ」という風に扉の方へ両手を動かした。
 顔一面の髪の毛とフケの中から、辛《かろう》じて眼を開いた私は、看護婦に両手を引かれたまま、冷めたい敷石を素足で踏みつつ、生れて初めて……?……扉の外へ出た。
 若林博士は扉の外まで見送って来たが、途中でどこかへ行ってしまったようであった。

 扉の外は広い人造石の廊下で、私の部屋の扉と同じ色恰好をした扉が、左右に五つ宛《ずつ》、向い合って並んでいる。その廊下の突当りの薄暗い壁の凹《くぼ》みの中に、やはり私の部屋の窓と同じような鉄格子と鉄網《かなあみ》で厳重に包まれた、人間の背丈ぐらいの柱時計が掛かっているが、多分これが、今朝早くの真夜中に……ブウンンンと唸《うな》って、私の眼を醒まさした時計であろう。どこから手を入れて螺旋《ねじ》をかけるのか解らないが、旧式な唐草模
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