どこで自分の物になって来たのか。そんなに夥《おびただ》しい、限りもないであろう、過去の記憶を、どうしてコンナに綺麗サッパリと忘れてしまったのか……。
……そんな事を考えまわしながら眼を閉じて、自分の頭の中の空洞《がらんどう》をジッと凝視していると、私の霊魂《たましい》は、いつの間にか小さく小さく縮こまって来て、無限の空虚の中を、当てもなくさまよいまわる微生物《アトム》のように思われて来る。……淋しい……つまらない……悲しい気持ちになって……眼の中が何となく熱くなって……。
……ヒヤリ……としたものが、私の首筋に触れた。それは、いつの間にか頭を刈ってしまった理髪師が、私の襟筋《えりすじ》を剃《そ》るべくシャボンの泡を塗《なす》り付けたのであった。
私はガックリと項垂《うなだ》れた。
……けれども……又考えてみると私は、その一箇月以前にも今一度、若林博士からこの頭を復旧された事があるわけである。それならば私は、その一箇月以前にも、今朝みたような恐ろしい経験をした事があるのかも知れない。しかも博士の口ぶりによると、博士が私の頭の復旧を命じたのは、この理髪師ばかりではないようにも思える。もしそうとすれば私は、その前にも、その又以前にも……何遍も何遍もこんな事を繰返した事があるのかも知れないので、とどの詰《つま》り私は、そんな事ばかりを繰返し繰返し演《や》っている、つまらない夢遊病患者みたような者ではあるまいか……とも考えられる。
若林博士は又、そんな試験ばかりをやっている冷酷無情な科学者なのではあるまいか?……否。今朝から今まで引き続いて私の周囲《まわり》に起って来た事柄も、みんな私という夢遊病患者の幻覚に過ぎないのではあるまいか?……私は現在、ここで、こうして、頭をハイカラに刈られて、モミアゲから眉の上下を手入れしてもらっているような夢を見ているので、ホントウの私は……私の肉体はここに居るのではない。どこか非常に違った、飛んでもない処で、飛んでもない夢中遊行を……。
……私はそう考える中《うち》にハッとして椅子から飛び上った。……白いキレを頸に巻き付けたまま、一直線に駈け出した……と思ったが、それは違っていた。……不意に大変な騒ぎが頭の上で初まって、眼も口も開けられなくなったので、思わず浮かしかけた尻を椅子の中に落ち付けて、首をギュッと縮めてしまったのであった
前へ
次へ
全470ページ中33ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング