クチマネ
夢野久作

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)お家《うち》の前で

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)反物|入《い》りまションか

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)けんとんけんちゅう[#「けんとんけんちゅう」に傍点]
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 美代子さんは綺麗な可愛らしい児でしたが、ひとの口真似をするので皆から嫌われていました。
 或る日の事、美代子さんはお家《うち》の前でたった一人で羽子《はね》をついていますと、一人の支那人が反物を担いで遣って来て、美代子さんのお家《うち》の門口で、
「奥さん、旦那さん、反物|入《い》りまションか」
 と言いました。美代子さんはカチリカチリと羽子をつきながら、
「入りまショんよ」
 と云いました。
 支那人はニヤニヤ笑って美代子さんを見ておりましたが又、
「けんとんけんちゅう[#「けんとんけんちゅう」に傍点](支那の織物の名)入りまションか」
 と云いました。
「てんどんけんちん[#「てんどんけんちん」に傍点]入りまションよ」
 と美代子さんは矢張《やは》り羽子《はね》をつきながら、又口真似をしました。
 支那人はこの時大変こわい顔をしましたが、何も知らずに羽子をついている美代子さんのすぐうしろに来て、小さな金襴《きんらん》の巾着《きんちゃく》をポケットから出してその口を拡げながら、
「オーチンパイパイ」
 と云いました。美代子さんは矢張り何気なく羽子をつきながら口真似をしました。
「オーチンパイパイ」
「ハッ」
 と支那人が大きなかけ声をしますと、美代子さんは羽子と羽子板ごと影も形も見えなくなってしまいました。
 支那人は又ニヤリと笑ってあたりを見まわしましたが、そのまま巾着の口を閉じて懐中へしまって、反物を担いで今度は隣家《となり》の門口へ行って知らぬ顔で、
「けんとんけんちゅう[#「けんとんけんちゅう」に傍点]入りまションか」
 と呼びました。
 美代子さんのおうちの玄関で勉強をしていたお兄さんの春夫さんは、支那人が妙なかけ声をすると一時《いちどき》に羽子板の音が聞こえなくなりましたので、変に思って障子を開けて見ますとコハ如何《いか》に、たった今までいた美代子さんが影も形も見えません。いよいよ変に思って表へ駆け出して見ると、お天気の良い往来に人通りも無く、二三軒先で支那人が、
「反物入りまションか」
 と云っているだけです。
 春夫さんはあの支那人が誘拐《かどわか》したに違いないと思いました。
 どこに美代子さんを隠したのだろうと思いながら、見えかくれにあとからついて行きますと、支那人は二三軒門口から呼び歩きましたが、間もなく真直ぐに街を出てだんだん賑《にぎ》やかな処へ来ました。そうしてこの街で一番繁華な狭い通りへ来ると、そこの暗い横露地へズンズン曲り込んで、黒い掃《は》き溜《だめ》の横にある小さな入口へ腰をかがめて這入ると、アトをピシャンと閉めてしまいました。
 春夫さんは、この支那人が美代子さんを誘拐《かどわか》しているのじゃないのか知らんと思って、あたりを見まわしましたが、念のため横にある黒い箱にのぼって、その上にある小窓からガラス越しに中をのぞいて見ると、中は真っ暗で何も見えません。只|直《す》ぐ眼の前に大きな階段が見えるだけです。そうしてその上の方から聞こえるか聞こえぬ位、かすかに女の子の泣き声が聞えて来るようです。
 春夫さんは試しに窓を押して見ると、都合よくスッと開《あ》きました。占めたと思って、そこから機械体操の尻上りを応用して梯子段《はしごだん》の上に出て、あとの硝子《ガラス》窓をソッと閉めました。すると疑いもない女の児の泣き声が、上の方から今度ははっきり聞えて来るではありませんか。
 春夫さんは胸を躍らせながら、足音を忍ばせて真暗な梯子段を声のする方へ近寄りました。その突当りの真暗な廊下に一つの扉があります。声はその中から聞えて来るようです。
 春夫さんはその扉の鍵穴にそっと眼をつけて見ましたが、思わず声を立てるところでした。
 中には、青い洋燈が真昼のように点《とも》れている下に、大きな大理石の机があります。その前に最前の支那人が汚いシャツ一枚になって腕まくりをして、巾着の口を開いて中をのぞきながら、
「メーチュンライライ」
 と云いますと、一人の女の児が見事な洋服を来たままヒョイと机の上に飛び出しました。
 女の児は机の上に立つと、暫くは眩《まぶ》しそうにキョロキョロあたりを見まわしておりましたが、支那人の顔を見ると、かどわかされた事に気が付いたと見えて、ワッとばかりに泣き出しました。
 支那人はニヤニヤ笑って巾着の口を閉じながら、
「お嬢さん。あなた、私の口真似をしたでしョ。だから私が罰をするの
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