7]の中には最小限七パーセント位の鉄分を含んでいる。この中から純粋の鉄を取るのは、非常に面倒な工程が要るので、こうやって放置して、冷却してから打割って海へ棄てるんだが、折角《せっかく》、こうして何千度という高熱に熱したものを、無駄にするのは惜しいものなんだ。ほかの技師連中はコイツをブロックにするとか、瓦を作るとか云って騒いでいるが、僕一人で反対して頑張っているんだ。だから、いつも職工が帰ってからここに来て、この火の海の中から簡単に純鉄を取る方法を考えているんだがね」
「今も考えているんですかい」
「ウン……重大なヒントが頭の中で閃めきかけているんだ。暫く黙っていてくれ給え」
 戸塚は自烈度《じれった》そうにそこいらを見まわして舌打ちをした。
「チエッ……いい加減、馬鹿にしてもらいますめえぜ。十二万円の話はドウしてくれるんですか」
「十二万円……何が十二万円だい」
「……………」
「十二万円儲かる話でもあるのかい」
 戸塚は唖然となったらしい。狭いデッキの上で、すこし中野学士から離れた。
「……呆れたね……」
「そんな話は知らないよ僕は……夢を見ているんじゃないか君は……」
 戸塚の眼が眼鏡の下でキラリと光った。菜葉服の腕をマクリ上げかけたが又、思い直したらしく、鳥打帽を脱いで頭を下げた。
「……イヤ……中野さん。決して無理は云いません。四半分でいいんで……ねえ。それ位の事はわかってくれてもいいでしょう。貴方は大学を一番で出た優等生《できぶつ》だ。これからの出世は望み次第だ。第一頭がいいからね。西村さんを殺《や》った腕前なんざ凄いもんだぜ」
 中野学士の眼鏡が反撃するようにピカリと赤く光った。
「……失敬な……失敬な事を云うな。西村を殺《や》ったのは貴様か、三好と二人の中《うち》の一人だろう」
 戸塚は冷然と笑った。
「ヘヘヘ。その証拠は……」
「九月の末に、お前と三好と俺とでテニスを遣った事があるだろう」
「ありましたよ。三好が、あっしに勧めて貴方にお弟子入りをしようじゃないかと云い出したんです。三好が、一番下手なんで、貴方が三好ばかりガミガミ云ったもんだから、あれっきり来なくなっちゃったんですが……」
「ウム。あの時に会計部の西村がコートの横を通りかかったろう」
「ヘヘ。よく記憶《おぼ》えているんですね」
「今度の事件で思い出したんだ。……あの時も半運転だったからスチームの音がしなかったが、その西村の顔をジロリと見た貴様が……イヤ……三好だっけな……スチームが一パイ這入ってれあここで鵞鳥を絞め殺したって、生きながら猿の皮を剥いだって大丈夫だ……てな事を云ったじゃないか」
「そんならそれを聞いた貴方と、三好と、あっしと、三人の中《うち》の一人が犯人でしょう」
「俺はソンナ事をする必要はない」
「必要はなくても貴方に間違いないですよ」
「何……何だと……」
「ヘヘヘ……あの時に貴方の仕事を、ズッと向うの事務所の前から拝見していたのは、あっしと三好と、又野の三人ですぜ。貴方は近眼だからわからなかったんでしょうけど……貴方は警察に呼ばれて話をしたのが又野一人と思っていらっしたんですか。又野が一番正直者ですから代表に名前を出されただけなんですぜ。ヘヘヘ……貴方にも似合わない迂濶《うかつ》な新聞の読み方をしたもんですなあ」
「……………」
「ねえ。そうでしょう。立役者は何といったって貴方一人だ。貴方にはチャンとした必要があったんだ。だからあの話から思い付いて、万が一にも抜目の無《ね》えつもりでキチンとした計画を立てたのが、いけなかったんですね。つまり貴方の頭が良過《よす》ぎたんだ」
「……………」
「ねえ。そうでしょう。今貴方がお穿きになっているその新しい太陽足袋ですね。そいつがきょう、テニス・コートで物をいっちゃったんでさあ。あの話は、ほかの連中もみんな聞いているんですからね。あっしが出る処へ出れあ、証人はいくらでも……」
「よしッ。わかったッ。もう云うな……半分くれてやる」
「エッ。半分……」と戸塚が叫んだ。
「……ヘエッ……半分ですって……」
「同じ事を二度とは云わん。テニスの道具を蔵《しま》ってあるあの部屋のラケット箱の下に床板の外れる処が在る。その下に在る新聞紙包みをここへ持って来い」
 戸塚は茫然となって相手の顔を見た。相手の顔はニコニコしていた。
「……馬鹿……何をボンヤリしているんだ。その新聞紙包みをここに持って来いよ。分けてやるからな。テニス倉庫の鍵はこれだ。ホラ……」
 戸塚は何という事なしに、慌てて頭を一つ下げた。鍵を受取ってポケットに入れようとしたが、その一|刹那《せつな》に片手でデッキの欄干《てすり》に掴まっていた中野学士が鮮やかな足払いをかけた。
「アッ」と叫ぶなり戸塚はモンドリ打って火の海へ落ちて行った。
「ボオオ――ンンン……」
 それは十海里も沖で打った大砲のような音であった。火の海の表面から湧き起った仄黄色《ほのきいろ》い水蒸気と、煙と、焔の一団が、渦巻き合いながら中空の暗《やみ》へ消え入ると、あとに等身大の大の字|形《なり》の黒い斑点が残っていたが、それとてもやがて又、何の痕跡も留めない赤い火の海平面に復帰して行った。
 ただ、それだけであった。

       六

 中野学士はポケットから白いハンカチを出して顔を押えていた。それでも噎《む》せるような焼死体の異臭に鼻を撲《う》たれてペッペッと唾液を吐いた。
 その序《ついで》にニッコリと笑って平炉の広い板張のデッキへ帰りかけたが、そのニコニコ笑《わらい》が突然に、金縁眼鏡の下で氷り付いてしまった。
 板張りのデッキへ帰る三尺幅ぐらいの鉄の橋の向うに一人の巨漢がこっちを向いて仁王立になっている。火の海の光りを反映した、その顔は怒りに燃えているようである。高やかに組んでいる両腕の太さは普通人の股ぐらいに見える。
 中野学士は思わず半歩ほど後へ退《さが》った。キッと身構えをしてその男を白眼《にら》んだ。折柄、遥か向うで開いた汽鑵場のボイラーの焚口が、向い合った二人の姿を切抜いたように照し出した。
 中野学士はジリジリと身構えを直しながらも左右の拳《こぶし》を握り締めた。「何だ君は……」
 相手の巨漢は動かなかった。「俺は汽鑵部の又野という釜焚《かまた》きだ」
「知っている。……職場以外の人間がこのデッキへ上る事は厳禁だぞ。俺はここの主任だぞッ」
 中野学士の語尾が少し甲走《かんばし》った。又野の瞳がキラキラと光った。
「知っとる……貴様は今、何をしよった。俺の仲間の戸塚をどうしたんか」
「戸塚は自分で辷って落ちたんだ」
「……嘘|吐《こ》け……」
「退《ど》けと云うたら退《ど》け……」
 中野学士は相手が自分を殺すような乱暴者でない事を確信していたらしい。同時に自分の柔道の段位にも、相当の自信を持っていたらしく、イキナリ真正面から又野を突き退《の》けてデッキの平面に立つと、間髪を容れず、立直って来る又野の足を目がけて、猛烈な足払いをかけた……が……ビクともしない……と思った瞬間に又野の巨大《おおき》な両手が、中野学士の襟首にかかって、ギューギューと絞付けて来た。
「エベエベエベエベエベエベ……」
 という奇妙な声を上げたと思うと中野学士は、背中と尻のふくらみを又野の両手に掴まれたまま、軽々と差上げられていた。
 又野は怒りの余り、中野学士を火の海へ投込むつもりらしかったが……トタンに、それと察した中野学士が無言のままメチャクチャに手足を振まわし初めたので、又野は思わずヨロヨロとなってデッキの端に立止まった。
 その時に誰かわからない真黒い影が、突然に平炉の蔭から飛出して来た。又野の腰を力一パイ突飛ばすとそのまま、後も見ずに逃げて行った。
「アッ……」
 と又野は前へのめったが、振返る間もなく中野学士を掴んだままギリギリと一廻転して、真逆様《まっさかさま》に落ちて行った。
 しかし又野は下まで落ちて行かなかった。
 ちょうど又野の両足の間に、鉄板の腐蝕した馬蹄型の穴が在った。そこに又野の左足の踵《かかと》が引っかかったために、片足で逆釣りに釣られたまま中野学士の背中と尻をシッカリと掴んでいた。同時に中野学士の顔は、四尺ばかりを隔てた真上から火の海に直面してしまったので、その恐ろしい火熱に焙《あぶ》られた中野学士は地獄のような悲鳴をあげた。
「……ガガアーッガガアーッ……助けて助けてッ……」
 金剛力に掴まれた中野学士の服地がベリベリと破れ裂け初めた。
「動《いご》いちゃイカンイカン。中野さん。助けます助けます……動《いご》いちゃ……イカン……」
 又野も絶体絶命の涙声を振り絞った。
「オーイ。誰か来いッ。誰かア……誰か来てくれエエーイッ。オオ――オオ――イッ。あばれちゃいかん。あぶないあぶない……」
「何だ何だ」という声がデッキの上の闇から聞こえて、ガタガタと二三人走って来る足音がした。
 しかし中野学士の耳には這入らないらしかった。火焔と同じくらいの熱度を保《も》った空気に迫られて動くまいとしても動かずにいられなかったのであろう。死物狂いに手足を振り動かして火の海に背中を向けようとした。
「ギャアギャアギャア……ギャギャギャギャッ……」
 と人間離れのした声を立てた。その背中を掴んでいる又野も、絶体絶命の赤鬼みたような表情に変った。自分の踵がポリポリポリと砕けて脱け落ちそうな苦しみの中に、息も絶え絶えになって喘いだ。
「ハッハッハッハッ……あばれちゃ……いかん……ハッハッハッハッ……動《いご》いちゃ……」
 折柄起った薄板工場の雑音のために、その声は掻き消されて行った。
 その時に中野学士の胸のポケットからハミ出していた白いハンカチが、フワリと火の海の上に落ちてメラメラと燃え上った。トタンに中野学士が人間の力とは思われぬ力と声を出した。
「……グワ――アアッ……」
 中野学士のお尻の処の布地《きれじ》が、又野の指の間で破れて、片足が足首の処まで火の海の中へ落ち込んだのであった。同時に硫黄臭い水蒸気と、キナ臭い煙を多量に交えた焔が燃え上って、又野の顔から胸の処まで包んだ。しかしそれでも又野は中野学士の背中を離さなかった。中野学士も又野の両腕にシッカリと抱き付いたまま膝から下を燃やしていた。
 近付いて来た足音が、その上で立止まった。
「ここだここだ。ワッ。臭いッ」
「ウア――。大変だ。人間が焼け死によるぞッ」

       七

 暁の光りと、明け残った半月の光りが、雪のように真白な大地の霜を、静かに照していた。
 星浦駅前の砂利だらけの広場に、淡い影法師を落しながら、鼈甲縁の眼鏡をかけた三好がスタスタと遣って来た。とても職工とは見えないスマートな茶縞の背広服に黒い冬オーバーの襟を深く立てて、左脇に四角い新聞紙包みをシッカリと抱えている。
 一番汽車に乗るつもりであろう。暗い待合室に這入ったが、まだ時間が早いし、切符売場の窓が開《あ》いていないので、ちょっと舌打をしたまま悠々と出て行こうとした。その序《ついで》に、黄色い電燈に照らされた待合室を見まわすと、ギョッとしたらしく立止まった。
 改札口に近い右手の片隅には、青いネルの布片《ぬのきれ》に頬冠りをして毛布で身体《からだ》を包んだ老婆が、シッカリとバスケットに獅噛《しが》み付いて眠っていた。
 その反対側の入口に近い処に、全身を繃帯で真白に包んだ、スバラシク巨大な大入道が、腰をかけていた。その左足には石膏か何か嵌《は》まっているらしく、普通の人間の胴ぐらいの大きさになっている。おまけに履物も何も履いていないので、綿と繃帯で包んだ白い象の足みたいな足の裏が泥だらけになっている。
 三好は、あんまり意外千万な人間の姿を見てビックリしたらしく立竦《たちすく》んだ。……コンナ人間がこの霜朝に汽車に乗ってどこへ行くのだろう。もしや、これはどこかのお祭りの人形か、それとも何かの標本ではないか……と疑ったらしく、すっかり気を取られて見上げ見下していたが、そのうちにその真白な、潜水器じみた巨大な頭
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