こうとして、うっかりポケットからインテリの証拠を引っぱり出して拭いちゃったんだ。新しい地下足袋ってのは間に合わせの変装用に買ったものに違《ちげ》えねえんだ」
「お前のアタマの方が、戸塚の頭よりもヨッポド恐ろしいぞ」
「アハハハ。冷やかすなってこと……アタマは生きてる中《うち》使っとくもんだ。まだあるんだぜ。……いいかい……西村さんが十四銀行から金を出して来るのはいつも十の日の朝で、九時キッカリらしいんだ。それから人力車に乗って裏門で降りて、ここを通って事務室へ行くんだろう……なあ……しかもここは、いつも芝居の稽古をやっている処だし、どんなに大きな声を出したってスチームの音で消えちまうんだから、誰が見ていたって本当の人殺しとは思わない。まさかに真昼間、あんな大胆な真似をする者が居ようなんて思い付く者は一人も居ないだろう。見ている人間は皆芝居の稽古だと思ってボンヤリ眺めているだろう……だから、真夜中の淋しい処で殺《や》るよりもズッと安全だっていう事を前から何度も何度も考えて、請合い大丈夫と思い込んで計画した仕事に違いないんだから、ヨッポド凄い頭脳《あたま》の奴なんだ。職工なんかにこの智恵は出ねえね。インテリだね。どうしても……」
「フーム……」
 又野はバットを横啣《よこぐわ》えにしたまま白い眼で三好をかえりみた。膝を抱えたまま……。
「お前もインテリじゃなかとな」
 三好は又野に睨まれてチョット鼻白んだ。
「インテリじゃねえけども……あれから毎日毎日考えてたんだ。だからわかったんだ」
「犯人の見当が付いたんか……そうして……」
「付いてる」
「エッ……」
「チャンと犯人の目星は付いてるよ」
 又野はジロリとそこいらを見まわした。真正直な、緊張した表情でバットの灰を弾《はじ》いた。
「戸塚が犯人て云うのか……お前は……」
「プッ……戸塚が犯人なもんけえ。俺達と一所に見てたじゃねえか。犯人なもんけえ」
「誰や……そんなら……」
 又野が突然にアグラを掻いて、真剣な態度で三好の方向に向き直った。バッタが驚いて二三匹草の中から飛上った。
 三好は答えなかった。事務室の方向を鼈甲縁越しにジイッと見ていたが、そのまま非常に緊張した、青褪《あおざ》めた顔をして云った。
「誰にも云っちゃいけないぜ。懸賞金は山分けにするから……」
「そげなものはどうでも良《え》え。西村さんの仇讐《かたき》をば取ってやらにゃ」
 三好はやっと振り返った。
「それよりも、もし戸塚が万が一にも赤い主義者だったら大変じゃねえか。君は在郷軍人だろう」
「ウン。在郷軍人じゃが、それがどうしたんかい」
「どうしたんかいじゃねえ。彼奴《あいつ》の手に渡ると十二万円が赤の地下運動の軍資金になっちまうぜ」
「ウン。それあそうたい」
「腕を貸してくれるな……君は……」
「ウン。間違いのない話ちう事がわかったら貸さん事もない」
「そんなら耳を貸せ」
 三好は又野の耳に口を当てて囁いた。
「その犯人が今ここに来る」
「エッ……」
「見ろ……今事務室の方からテニスの道具を持った連中が五人来るだろう。あの中に犯人が居ると俺は思うんだ。いつでもここでテニスを遣りよる連中だ。ここで何度も何度もテニスを遣って、ドンナ大きな声を出しても、ほかに聞こえない事をチャンと知っている奴が、思い付いた事に違《ちげ》えねえじゃねえか。見てろ……俺の云う事が当るか当らねえか……」
「サア……」
 そう云う又野の表情が、いくらか緊張から解放されかけた。三好の推測が、すこし当推量《あてすいりょう》に過ぎるのを笑うつもりらしかった……が……その笑いかけた顔が間もなく、前よりもズッと青白く緊張して来た。審判席の草叢《くさむら》の中から、コスモスの花の中へジリジリと後退《あとしざ》りをし初めたが、その肩に手をかけて、又野と同じ方向を見ていた三好も、すこし慌て気味で中腰になった。
「オイ。いけねえいけねえ。あの中に戸塚が居やがる」
「……ウン……居る。あの奴もテニスの連中に眼を付けとるばい。……不思議だ……」
 又野が深い、長い溜息を吐いた。
「不思議どころじゃねえ。早く隠れるんだ。俺達二人が揃っているのを戸塚に見られちゃ面白くねえ。……こっちに来たまえ」
 三好と又野は慌てて草の中から立上った。二人とも何気なくバットの吸いさしを投棄てて、薄暗い汽鑵場へ引返《ひっかえ》した。ボイラーから程遠い浴場の煉瓦壁に、三ツ並んで残っている古いパイプの穴から、肩をクッ付け合わせてテニス・コートを覗いた。二人の眼の前にコスモスが眩しくチラチラして邪魔になった。
 ネットはもう張られていた。
 第一製鋼工場の副主任の中野学士と、職工の戸塚と、事務室の若い人間が三人来て軟球の乱打ちを初めていた。中野学士と戸塚が揃いの金口を啣《くわ》えていた。
「オイ、三好。中野さんと戸塚の野郎は前から心安いんか」
 三好が仄白い光りの中で片目をつぶって笑った。
「戸塚は中野さんの世話で製鉄所《ここ》へ入ったんだ。自分でそう云ってたじゃねえか」
「そうじゃったかなあ……忘れた……」
「中野さんの処へ戸塚の妹が、女中になって住込んでいる。その縁故なんだ」
「そうじゃったかなあ……なるほど……」
「中野さんは九大出の秀才で、柔道が三段とか四段とか……」
「うん。それは知っとる。瘠せとるがちょっと強い。一度、肩すかしで投げられた事がある」
「この頃、社長の星浦さんの我儘娘を貰うことになっているんだ……中野さんが……」
「知っとる。あの孔雀さんちうモガじゃろ」
「ウン。それで社長から海岸通りに大きな地面を貰っているんだが、結婚前に家を建てなくちゃならんし、自動車も買わなくちゃならねえてんで、中野さんが慌て出している。相場に手を出したり、高利貸から金を借りたりしているっていう戸塚の話だ」
「戸塚の妹が喋舌《しゃべ》ったんか」
「そうらしいよ」
 コスモスの向うの中野学士はほかの四人の指導者《コーチャー》格らしく、中央のネット際に立って前後でボールを打ち合っている四人に色々苦情を云い初めた。
「戸塚ッ……お前はどこでテニスを遣ったんだっけね」
「中学で遣ったんです。後衛でしたが」
「スタートが遅いね。我流だね。ホラホラ……」
「ええ。この拝借した地下足袋が痛くって……」
「ハハハ……俺の足は小さい上に、足袋が新しいからね」
「これ……太陽足袋ですね」
「ウン……辷《すべ》らないと云うから試しに買ってみたんだが……やっぱりテニス靴の方がいいね。窮屈で、重たくて、辷る事は同じ位、辷るんだからあそこに投込んでおいたんだ」
「いつ頃お求めになったんですか」
「……………」
「非常に丈夫そうですが、どこでお求めになったんで……」
「……………」
 中野学士は返事をしなかった。直ぐに真向うの事務員の一人を叱り飛ばした。
「馬鹿……そんな遠くからトップを打ったって利かん利かん……ソレこの通り……ハッハッハ……」
 と高笑いをするうちに、その事務員の足の下へ火の出るようなヴォーレーをタタキ返した。その得意そうな背後《うしろ》姿を睨みながら、戸塚が地下足袋の裏面《うら》をチョット裏返してみた。そうして何気ない恰好で、飛んで来る球《たま》に向って身構えたが、間もなく顔中に勝ち誇ったような冷笑を浮かみ上がらせた。
 三好と又野は壁の穴から身を退《ひ》いて、恐る恐る顔を見交した。二人とも笑えないほど緊張していた。やがて又野が深い、長い溜息を一つした。
「……そうかなあ……彼奴《あいつ》かなア……」
 セカセカと眼鏡をかけ直しながら三好はうなずいた。又野は茫然となった。
「そうかなあ……ヘエーッ……」
「まだ疑っているのかい。タッタ今、自分で犯人だって事を自白したじゃねえか」
「……フーム……」
「又野君……」
「……………」
「今夜、俺と一所《いっしょ》に来てくれるかい」
「どこへ……」
 三好の眼鏡が場内の電燈を反射してキラリと光った。命令するように云った。
「どこへでもいいから一所に来てくれ。六時のボーが鳴ったら俺が迎えに行く。俺一人じゃ出来ねえ仕事だかんな」
 又野が黙って腕を組み直して考え込んだ。三好が冷然と見上げ見下した。
「嫌になったのかい。それとも怖くなったんかい……」
「ヨシッ……行く……」
「きっとだよ」
「間違いない」
「大仕事になるかも知れないよ」
「わかっとる」
「生命《いのち》がけの仕事になるかも……」
「ハハハ。わかっとるチウタラ……」

       五

 星浦製鉄所はさながらの不夜城であった。鎔鉱炉《ようこうろ》、平炉《へいろ》から流れ出すドロドロの鉄の火の滝。ベセマー炉から中空《なかぞら》に吹上げる火の粉《こ》と、高熱|瓦斯《ガス》の大光焔。入れ代り立代り開く大汽鑵《ボイラー》の焚口《たきぐち》。移動する白熱の大鉄塊。大|坩堝《るつぼ》の光明等々々が、無数の煙突から吐出す黄烟、黒烟に眼も眩《くら》むばかりに反映して、羅馬《ローマ》の滅亡の名画も及ばぬ偉観、壮観を浮き出させている。その底に整然、雑然と並んでいる青白いアーク燈の瞬きが、さながらに興国日本の、冷静な精神を象徴しているようで、何ともいえず物凄い。
 第一製鋼工場の平炉は今しも、底の方に沈んでいる最極上の鋼鉄の流れを放流しつくして、不純な鉱石混りの、俗に「※[#「金+皮」、第3水準1−93−7]《かわ》」と称するドロドロの火の流れを、工場裏の真暗い広場に惜し気もなく流し捨てている。
 暗黒の底に水飴《みずあめ》のように流れ拡がる夥しい平炉の白熱鉱流は、広場の平面に落ち散っている紙屑、藁屑《わらくず》、鋸屑《おがくず》、塗料、油脂の類を片端から燃やしつつグングンと流れ拡がって行く。その端々、隅々から赤や、青や、茶色の焔がポーッと燃え上るたんびにそこいら中が明るくなって、又、前にも増した暗黒を作って行く物すごい光景を、薄板工場の中から湧き起るケタタマシイ雑音の交錯が伴奏しつつ、星だらけの霜の夜を更けさせて行く。
 その数百坪に亘る「※[#「金+皮」、第3水準1−93−7]《かわ》」の火の海の上へ、工場の甲板《デッキ》から突出ている船橋めいたデッキの突端に、鳥打帽、菜葉服姿の中野学士が凝然と突立って見下している。地の下から噴き出す何かの可燃性|瓦斯《ガス》が、火の海の中央を噴破《ふきやぶ》って、プクリプクリと眩しい泡を立てている、その一点を凝視したまま動かない。その瘠せた細面にかけた金縁の眼鏡に火の海が反射して小さな閃光を放っている。
 その背後《うしろ》にモウ一人、職工姿の戸塚が、影法師のように重なり合って突立っている。鳥打帽を冠って、眼鏡をかけているところまで中野学士とソックリである。それが中野学士の背後《うしろ》から覗き込むようにして、何かヒソヒソ囁やいている様子であったが、やがて返事を催促するかのように中野学士の肩に両手をかけてゆすぶった。
「返事はどうですか……中野さん……」
「……………」
「ここで返事すると云ったじゃありませんか……ええ……」
「……………」
「貴方《あなた》は今夜は現場勤務じゃないでしょう。出勤簿には欠勤の処に印《はん》を捺しておられるでしょう」
 中野学士が微かにうなずいた。それから悠々と金口煙草を一本出してライターを灯《つ》けた。
「……あっしを……それじゃ……オビキ出すために、あんな事を云ったんですか……ここまで……」
 戸塚は脅《お》びえたように足の下の火の海を見た。中野学士がそう云う戸塚の顔を振返って冷然と笑った。白い歯並が暗《やみ》に光った。
「暑いじゃないですかここは……丸で蒸《む》されるようだ」
「……フフン……百二三十度ぐらいだろうな……この空気は……フフン……」
「……あっちに行って話しましょうよ。もっと涼しい処で……」
「……イヤ。僕はここに居る。ここで考えなくちゃならん」
「何をお考えになるんですか」
「この※[#「金+皮」、第3水準1−93−7]の利用方法さ」
「この火の海のですか」
「ウン……この※[#「金+皮」、第3水準1−93−
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