と早口に叫んだ戸塚は、ほかの二人が呆気《あっけ》に取られているうちに素早く、直ぐ横の木工場に飛込んで行った。犯人のアトを追って行ったらしかった。
 しかし戸塚は、そのまま帰って来なかった。
 木工場と鋳造場と、その向うの薄板《うすいた》工場と、第一工場のデッキの下を潜り抜けて、購買組合の前から通用門を抜けると往来へ出る。そこから一気に警察へ駈け込んで行ったのであった。

       三

 警察はちょうど無人《ぶにん》であった。海岸に漂着死体が在るという報告で、出動した後だったので、居残っていた田原という警部が、戸塚の話を聞いて、外から帰って来たばかりの思想係りの楠《くすのき》という刑事を呼んで一所《いっしょ》に出かけようとした。そこへ又けたたましく電話がかかったので、田原警部が剣を釣りながら聞いてみると、今度は製鉄所の事務室から三好という職工が掛けたものであった。
 田原警部はチエッと舌打をした。直ぐに小使を呼んで名刺の裏に鉛筆で走り書きをして海岸に走らせた。
「楠君。君、署長に電話をかけてこの男の話を取次いでくれ給え。製鉄所の公会堂で武道試合を見ている筈だから……多分、非常召集になるだろう。遣り切れんよ全く……」
 騒ぎがだんだん大きくなって行った。盗まれた現金が十二万円という大金で、且つ、被害者の西村というのが、非常に評判のいい好人物だったせいでもあったろう。一つには死骸が二人の職工の手で事務室へ抱え移されていたために、現場の模様が全くわからなくなったので、取調べがだんだん大仕掛になって行って、犯人が逃込んだと思われる、木工、鋳造、薄板、第一工場の全部の職工が一人一人に訊問されたせいでもあったろう。
 もちろんその時には星浦警察署と町の青年の全員が工場の周囲を蟻《あり》の這い出る隙もないくらい包囲していた。取調べには署長以下、警部と、部長と刑事の全員が大童《おおわらわ》になってスピードをかけたものであったが、それでも見当が付かなかったらしく、夕方になって、現場を見ていた三人の職工が今一度呼出されて、念入りな訊問の仕直しを喰ったが、それでも三人の答えは前の時とチットも変らないばかりでなく、ピッタリと一致するところばかりなので、何事もなく放免された。
 製鉄所の裏門から銀行へ行って、製鉄所の資金の一部と、職工の俸給の全部を受取った西村は、札束の全部を、いつもの通りに黒ズックの鞄へ入れて、いつもの通りに銀行の前から人力車に乗って製鉄所の裏門の前まで来た。それから矢張り、いつもの通りの近道伝いにテニス・コートを通り抜けて、事務室へ帰る途中を要撃されたものに相違ない。むろん西村はあのテニス・コートが、そんなに恐ろしい処と知らなかったであろう。八方に見透しの利く安全無比の通路と思って通ったものであろう。同時に犯人は、工場内部の事情に精通している職工の一人に相違あるまい……という警察側の見込らしかった。
 三人が警察の門を出た時には四隣《あたり》がモウ真暗になっていた。生れて初めて警察官の取調《とりしらべ》を受けた又野は、すっかり毒気を抜かれたせいであったろう。昼間の昂奮も、怒りも忘れたように、元の木阿弥《もくあみ》のオンチ然たる悄気《しょげ》返った態度に帰って、三好と戸塚の後からトボトボと出て来たが、そのまま三人が三人とも黙々として、人通りの多い明るい道を合宿所の方向へ歩き出した。
 その中《うち》に三人が揃って薄暗い横町に曲り込むと、三人とも夢から醒めたように顔を見交した。
「オイ」
「何だい」
 三人が揃って黒板塀の間に立佇まった。三好が帽子を脱いで頭を掻き掻き云った。
「俺は何だか大切な事を一つ警察で話し忘れて来たような気がするがなあ」
「何だい。すっかり話しちゃったじゃねえか」と戸塚が眼をパチパチさせた。
「ウン俺も何か知らん、一番大切な事をば云い忘れて来たような気がしてならん」
 又野が街燈の光りを仰ぎながら初めて微笑した。戸塚が、その顔を振返りながら不安らしく云った。
「何も忘れた事あねえぜ。西村さんが殺されてよ……軍手をはめた手でなあ」
「そうよ。あの鉄の棒は警察で引上げて行ったろう。四分の一|吋《インチ》ぐらいの細いパイプだったが……なあ又野……」
「ウン。犯人は地下足袋を穿いとったって俺あ云うたが……」
「ウン。俺も地下足袋だと云ったがなあ」
「犯人が木工場へ這入るとコスモスの処を風が吹いたなあ」
「馬鹿。そんな事を云ったのかい」
「見た通りに云えと云うたから云うたてや」
「アハハハハハ犯人とコスモスと関係があるのかい……馬鹿だなあ」
「アッ。そうだ。あの菜葉服の野郎が白いハンカチで汗を拭いたって事を云い忘れてた」
 と云ううちに三好が唇を噛んで警察の方向を振り返った。
「ウン。そうじゃそうじゃ。そういえば俺も思い出いた。云うのを忘れとった。四角に折ってあったなあ」
 又野が、悪い事をした子供のように肩を窄《すぼ》めた。その横で戸塚が冷笑した。
「アハ。汗を拭くのは大抵ハンカチにきまってるじゃねえか」
「ウン。それもそうじゃなあ」
「しかし出来るだけ詳しく話せって云ったからな」
「ウン。それあそう云ったさ。しかしハンカチ位の事あ、どうでもいいだろう」と戸塚が事もなげに云い消した。三好が頭を掻いた。
「そうだろうか」
「そうだともよ。ナアニ。じきに捕まるよ。指紋てえ奴があるからな」
「木工場も鋳物工場の奴等も、呉工廠《くれこうしょう》から廻わって来た仕事が忙がしいので、犯人が通ったか通らないか気が付かなかったらしいんだな。なあ戸塚……お前が通り抜けた時も、何とも云わなかったかい」
「ウン。慌てていたせいか、鋳型を一箇所|踏潰《ふみつぶ》したんで、怒鳴り付けられただけだ」
 又野が大きな欠伸《あくび》を一つした。
「ああ睡むい。帰ろう帰ろう」
 しかし三人の職工の予期に反して、この犯人はなかなか捕まらなかった。
 二千人以上居る職工の身元の全部が、虱潰《しらみつぶ》しに調べ上げられたが、その結果は意外にも一人も居ない筈の赤い主義者の潜行分子が二三人発見されただけで終った。いよいよ職工以外の人間に着眼されなければならぬ順序になったが、しかしどこから見当を附けていいか、わからないらしかった。
 新聞では盛んに書き立てた……白昼の製鉄所構内で衆人環視の中《うち》に行われた、天魔の如く大胆なる殺人強盗……犯人は大地に消え込んだか……実見者又野末吉氏談……前代未聞の怪事件なぞと……殊に後頭部を粉砕されながらも勇敢に抵抗した西村会計部員の奇蹟的な気強さを、製鉄所長と医学博士の談話入りで賞讃した。
 西村の葬式は会社葬で執行された。職工たちの俸給はそれから二日遅れただけで、滞《とどこお》りなく渡された。
 起業祭も寧《むし》ろ平常よりも盛大に行われた。又野は皆から勧められて渋々角力に出場したが、懸賞附の五人抜にはどうしても出なかったので、賞金は柔道の出来る構内機関手の手に落ちた。
 そのうちに一箇月経つと警察もとうとう投出したらしく「遂に迷宮に入る」という新聞記事が出た。「十二万円の金の在所《ありか》と、犯人を指摘した者には一割の賞金を出す」という製鉄所名前の広告と一所に……。星浦製鉄所の内外はこの話で持ち切った。又野の処へ改めて話を聞きに来る者もチョイチョイ出て来たが、又野は五月蠅《うるさ》がって何も話さなかった。ほかの二人の職工を引合いに出すような事もしなかった。

       四

「なあ又野……戸塚の野郎が、何か大事な事を云い忘れているってこの間、警察署を出てから云ったなあ……暗い横町で……」
「ウン。云うとったが……それがどうかしたんかい」
「イヤ。別にどうって事はねえんだけど……」
 菜葉服の三好と又野が、テニス・コートの審判席の処に跼《しゃが》んでいた。二人の背後《うしろ》にはまだ半枯れのコスモスが一パイに咲き乱れていた。久し振り半運転にした汽鑵場裏は、物を忘れたようにシインとして、晴れ渡った青空から太陽が暑いくらい降り注いでいた。
 瘠せっぽちの三好は神経質らしく、擬《まがい》鼈甲縁《べっこうぶち》の眼鏡をかけ直して云った。
「戸塚の野郎は、俺あ赤じゃねえかと思うんだがなあ」
 逞ましい腕を組んでいた又野が血色のいい顔を不愉快そうに撫でまわした。
「どうしてかいな」
「どうしてって事もねえけど、何だかソンナ気がするんだ。第一、彼奴《あいつ》はツイこの頃就職して来やがったんだろう。それから、あんなに慣れ慣れしく俺達に近寄って来やがった癖に、あの事件から後《のち》、急に俺達と他所他所《よそよそ》しくし初めただろう。出勤《でる》にも帰宅《かえる》にも一人ポッチで、例の処へ誘っても一所に来やがらねえ。おまけにアレから後《のち》というもの、ショッチュウ何か考えているような恰好をしているじゃねえか」
「ウン。そう云うてみれあ、そげなところもあるなあ。あれから後《のち》、このテニス・コートを何度も何度もウロウロしているのを見た事がある」
「なあ。そうだろう。俺も見たんだ。だから怪しいと思ったんだ。そうしたらこの頃はチョットもここいらへ姿を見せなくなった代りに、隙《ひま》さえあれば第一工場に遊びに行きやがって、あそこのデッキ連中と心安くしているようだし、死んだ西村さんの家へ行って色々世話をしているかと思うと、事務所の連中とも交際《つきあ》うようになって、行きと帰りには毎日のように事務室に寄って行くらしい気ぶりじゃねえか」
「ウン。そらあ俺も気は附いとる。しかし何も、それじゃけに戸塚が、赤チウ証拠にゃあなるめえ」
「ウン。それあ証拠にゃあなるめえさ」
 と三好は慌てて鼈甲縁をかけ直した。
「証拠にゃならねえが……俺達が味方にならねえと諦らめて、ほかの処へ同志を作《アジ》りに行ったものと思えば、そうも見えるだろう」
 そう云ううちに三好は、菜葉服のポケットからバットを出して、又野にも一本取らせて火を点《つ》けてやった。
 二人はコートの端の草の上に尻餅を突いた。工場の上を長閑《のどか》に舞っている二羽の鳶を二人とも仰ぎ見た。その上を流れる白い雲も……。
「恐ろしい疑い深い人間やなあお前は……」
 又野はイヨイヨ不愉快そうに顔を撫でた。その横頬を熱心に見ながら三好は笑った。
「ハハハ。まだあるんだぜ。戸塚があの死体を西村さんと云い出すなり、直ぐに俸給泥棒と察して、追かけて行った時の素早かった事はどうだい。普通《ただ》じゃなかったぜ。あの意気込は……」
「あの男は頭が良《え》えけになあ。何でも素早いたい。今に限った事じゃなか」
「それがあの時は特別だったような気がするんだ。何もかも最初から知り抜いていたような気がするんだ。この頃になってやっと気が付いたんだが」
「フーン。そげな事が出来《でけ》るかなあ」
「そればかりじゃないんだ。彼奴《あいつ》は警察でわざと大事な事を云い落しやがったんじゃねえかと思うんだ。俺に云い中《あ》てられて、慌てて云い消しよったろう」
「ハンカチの話かな」
「ウン。あのハンカチの一件は一番カンジンの話なんだが、戸塚の野郎が正直《まとも》に話すか知らんと思ったから、俺は別々に訊問された時もわざと云わずにおいたんだ。そうして様子を探ってみたんだ」
「疑い深いなあ……お前は……」
「まだあるんだ。あの時の犯人は新しい地下足袋を穿いていたろう。コートの湿めった処に太陽足袋の足跡が、ハッキリと残っているのを君も僕も見たじゃないか。西村さんを抱え上げた時に……」
「ウン……見たよ」
「あれを戸塚が見やがった時に気が附きやがったに違いないんだ」
「何を……」
「犯人がインテリだって事を……」
「インテリたあ何かいな……インテリて……」
「学問のある奴だって事よ。知識階級……つまり紳士って意味だね。ねえ。そうだろう。あんなに真白い、四角く折ったハンカチなんか菜葉服の野郎が持つもんじゃねえ。タッタ一撃《ひとうち》で殺《や》っ付けるつもりだったのが、案外な抵抗を喰ったもんだから思わず汗が出たんだね。そいつを拭
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