三工場の鋳造部附属の木工場の蔭へ走り込んで行った。
 コスモスが風に吹かれて眩しく揺れ乱れた。
 その時に、あとに残った事務員風の男は、すこしばかり身動きしかけたようであったが、そのままグーッと身体《からだ》を伸ばした。その拍子に白い額が真赤に血に染まっているのが見えた。
「アッ……本物だっ……」
 三人の職工は誰が先ともわからないまま現場《げんじょう》に駈付けた。
 しかし、すべては手遅れであった。事務員風の男は頭蓋骨をメチャメチャに砕かれていたが、その悽惨な死に顔は、真正面《まとも》に眼を当てられない位であった。その枕元に突立った三人は、無表情に弛んだ真青な顔を見交すばかりであった。
 そのうちに両眼に涙を一パイに溜めた又野が、唇をワナワナと震わした。感情に堪えられなくなったらしくグッと唾液《つば》を呑んで、足元の無残な血だらけの顔を力強く指《ゆびさ》した。
「……ミ……見い……これが……芝居かッ……」
 又野の両頬を涙がズウーと伝い落ちた。火の付くような悲痛な声を出した。
「……わ……わ……汝輩《われども》が二人で……コ……殺いたんぞッ……」
 二人は恨めしそうな眼付で、左右から又野の顔を見上げた。しかし今にも飛びかかりそうな又野の、烈しい怒りの眼付を見ると、何等の抗弁もし得ないまま一縮みになってうなだれた。申合わせたように自分自分の影法師を凝視しつつ、意気地なく帽子を脱いだ。
 それを見ると又野も、思い出したように急いでお釜帽子を脱いだ。死骸の顔を正視しつつ軍人のように上半身を傾けて敬礼した。何事か祈るように両眼を閉じると熱い涙をポタポタとコートの赤土の上に落した。
「……すまん……済みまっシェン……」
 遥か向うを通る四五人の職工が、鉄片《てつきれ》の堆積越しにこちらを見て、ゲラゲラと笑いながら事務室の中へ這入って行った。やはり芝居の稽古と思ったのであろう。
 その間に死骸の顔の血を、自分の西洋手拭《タオル》で拭いてやっていた戸塚は、突然に大きな声で叫んだ。
「……ウワアッ……西村さんだっ……」
「ナニ。何だって……」
 とほかの二人……又野と三好が顔を近寄せて来た。スチームの音で聞こえなかったらしい。
「事務所の西村さんだよ。俸給係の……」
「何だ……俸給がどうかしたんか」
「馬鹿ッ。この顔を見ろッ。俸給係の西村さんだぞッ。俺達の俸給が持ってかれたんだッ」
 と早口に叫んだ戸塚は、ほかの二人が呆気《あっけ》に取られているうちに素早く、直ぐ横の木工場に飛込んで行った。犯人のアトを追って行ったらしかった。
 しかし戸塚は、そのまま帰って来なかった。
 木工場と鋳造場と、その向うの薄板《うすいた》工場と、第一工場のデッキの下を潜り抜けて、購買組合の前から通用門を抜けると往来へ出る。そこから一気に警察へ駈け込んで行ったのであった。

       三

 警察はちょうど無人《ぶにん》であった。海岸に漂着死体が在るという報告で、出動した後だったので、居残っていた田原という警部が、戸塚の話を聞いて、外から帰って来たばかりの思想係りの楠《くすのき》という刑事を呼んで一所《いっしょ》に出かけようとした。そこへ又けたたましく電話がかかったので、田原警部が剣を釣りながら聞いてみると、今度は製鉄所の事務室から三好という職工が掛けたものであった。
 田原警部はチエッと舌打をした。直ぐに小使を呼んで名刺の裏に鉛筆で走り書きをして海岸に走らせた。
「楠君。君、署長に電話をかけてこの男の話を取次いでくれ給え。製鉄所の公会堂で武道試合を見ている筈だから……多分、非常召集になるだろう。遣り切れんよ全く……」
 騒ぎがだんだん大きくなって行った。盗まれた現金が十二万円という大金で、且つ、被害者の西村というのが、非常に評判のいい好人物だったせいでもあったろう。一つには死骸が二人の職工の手で事務室へ抱え移されていたために、現場の模様が全くわからなくなったので、取調べがだんだん大仕掛になって行って、犯人が逃込んだと思われる、木工、鋳造、薄板、第一工場の全部の職工が一人一人に訊問されたせいでもあったろう。
 もちろんその時には星浦警察署と町の青年の全員が工場の周囲を蟻《あり》の這い出る隙もないくらい包囲していた。取調べには署長以下、警部と、部長と刑事の全員が大童《おおわらわ》になってスピードをかけたものであったが、それでも見当が付かなかったらしく、夕方になって、現場を見ていた三人の職工が今一度呼出されて、念入りな訊問の仕直しを喰ったが、それでも三人の答えは前の時とチットも変らないばかりでなく、ピッタリと一致するところばかりなので、何事もなく放免された。
 製鉄所の裏門から銀行へ行って、製鉄所の資金の一部と、職工の俸給の全部を受取った西村は、札束の全部を、いつ
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