もの通りに黒ズックの鞄へ入れて、いつもの通りに銀行の前から人力車に乗って製鉄所の裏門の前まで来た。それから矢張り、いつもの通りの近道伝いにテニス・コートを通り抜けて、事務室へ帰る途中を要撃されたものに相違ない。むろん西村はあのテニス・コートが、そんなに恐ろしい処と知らなかったであろう。八方に見透しの利く安全無比の通路と思って通ったものであろう。同時に犯人は、工場内部の事情に精通している職工の一人に相違あるまい……という警察側の見込らしかった。
 三人が警察の門を出た時には四隣《あたり》がモウ真暗になっていた。生れて初めて警察官の取調《とりしらべ》を受けた又野は、すっかり毒気を抜かれたせいであったろう。昼間の昂奮も、怒りも忘れたように、元の木阿弥《もくあみ》のオンチ然たる悄気《しょげ》返った態度に帰って、三好と戸塚の後からトボトボと出て来たが、そのまま三人が三人とも黙々として、人通りの多い明るい道を合宿所の方向へ歩き出した。
 その中《うち》に三人が揃って薄暗い横町に曲り込むと、三人とも夢から醒めたように顔を見交した。
「オイ」
「何だい」
 三人が揃って黒板塀の間に立佇まった。三好が帽子を脱いで頭を掻き掻き云った。
「俺は何だか大切な事を一つ警察で話し忘れて来たような気がするがなあ」
「何だい。すっかり話しちゃったじゃねえか」と戸塚が眼をパチパチさせた。
「ウン俺も何か知らん、一番大切な事をば云い忘れて来たような気がしてならん」
 又野が街燈の光りを仰ぎながら初めて微笑した。戸塚が、その顔を振返りながら不安らしく云った。
「何も忘れた事あねえぜ。西村さんが殺されてよ……軍手をはめた手でなあ」
「そうよ。あの鉄の棒は警察で引上げて行ったろう。四分の一|吋《インチ》ぐらいの細いパイプだったが……なあ又野……」
「ウン。犯人は地下足袋を穿いとったって俺あ云うたが……」
「ウン。俺も地下足袋だと云ったがなあ」
「犯人が木工場へ這入るとコスモスの処を風が吹いたなあ」
「馬鹿。そんな事を云ったのかい」
「見た通りに云えと云うたから云うたてや」
「アハハハハハ犯人とコスモスと関係があるのかい……馬鹿だなあ」
「アッ。そうだ。あの菜葉服の野郎が白いハンカチで汗を拭いたって事を云い忘れてた」
 と云ううちに三好が唇を噛んで警察の方向を振り返った。
「ウン。そうじゃそうじゃ。そういえば俺も思い出いた。云うのを忘れとった。四角に折ってあったなあ」
 又野が、悪い事をした子供のように肩を窄《すぼ》めた。その横で戸塚が冷笑した。
「アハ。汗を拭くのは大抵ハンカチにきまってるじゃねえか」
「ウン。それもそうじゃなあ」
「しかし出来るだけ詳しく話せって云ったからな」
「ウン。それあそう云ったさ。しかしハンカチ位の事あ、どうでもいいだろう」と戸塚が事もなげに云い消した。三好が頭を掻いた。
「そうだろうか」
「そうだともよ。ナアニ。じきに捕まるよ。指紋てえ奴があるからな」
「木工場も鋳物工場の奴等も、呉工廠《くれこうしょう》から廻わって来た仕事が忙がしいので、犯人が通ったか通らないか気が付かなかったらしいんだな。なあ戸塚……お前が通り抜けた時も、何とも云わなかったかい」
「ウン。慌てていたせいか、鋳型を一箇所|踏潰《ふみつぶ》したんで、怒鳴り付けられただけだ」
 又野が大きな欠伸《あくび》を一つした。
「ああ睡むい。帰ろう帰ろう」
 しかし三人の職工の予期に反して、この犯人はなかなか捕まらなかった。
 二千人以上居る職工の身元の全部が、虱潰《しらみつぶ》しに調べ上げられたが、その結果は意外にも一人も居ない筈の赤い主義者の潜行分子が二三人発見されただけで終った。いよいよ職工以外の人間に着眼されなければならぬ順序になったが、しかしどこから見当を附けていいか、わからないらしかった。
 新聞では盛んに書き立てた……白昼の製鉄所構内で衆人環視の中《うち》に行われた、天魔の如く大胆なる殺人強盗……犯人は大地に消え込んだか……実見者又野末吉氏談……前代未聞の怪事件なぞと……殊に後頭部を粉砕されながらも勇敢に抵抗した西村会計部員の奇蹟的な気強さを、製鉄所長と医学博士の談話入りで賞讃した。
 西村の葬式は会社葬で執行された。職工たちの俸給はそれから二日遅れただけで、滞《とどこお》りなく渡された。
 起業祭も寧《むし》ろ平常よりも盛大に行われた。又野は皆から勧められて渋々角力に出場したが、懸賞附の五人抜にはどうしても出なかったので、賞金は柔道の出来る構内機関手の手に落ちた。
 そのうちに一箇月経つと警察もとうとう投出したらしく「遂に迷宮に入る」という新聞記事が出た。「十二万円の金の在所《ありか》と、犯人を指摘した者には一割の賞金を出す」という製鉄所名前の広告と一所に……。星浦製鉄
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