き》をば取ってやらにゃ」
 三好はやっと振り返った。
「それよりも、もし戸塚が万が一にも赤い主義者だったら大変じゃねえか。君は在郷軍人だろう」
「ウン。在郷軍人じゃが、それがどうしたんかい」
「どうしたんかいじゃねえ。彼奴《あいつ》の手に渡ると十二万円が赤の地下運動の軍資金になっちまうぜ」
「ウン。それあそうたい」
「腕を貸してくれるな……君は……」
「ウン。間違いのない話ちう事がわかったら貸さん事もない」
「そんなら耳を貸せ」
 三好は又野の耳に口を当てて囁いた。
「その犯人が今ここに来る」
「エッ……」
「見ろ……今事務室の方からテニスの道具を持った連中が五人来るだろう。あの中に犯人が居ると俺は思うんだ。いつでもここでテニスを遣りよる連中だ。ここで何度も何度もテニスを遣って、ドンナ大きな声を出しても、ほかに聞こえない事をチャンと知っている奴が、思い付いた事に違《ちげ》えねえじゃねえか。見てろ……俺の云う事が当るか当らねえか……」
「サア……」
 そう云う又野の表情が、いくらか緊張から解放されかけた。三好の推測が、すこし当推量《あてすいりょう》に過ぎるのを笑うつもりらしかった……が……その笑いかけた顔が間もなく、前よりもズッと青白く緊張して来た。審判席の草叢《くさむら》の中から、コスモスの花の中へジリジリと後退《あとしざ》りをし初めたが、その肩に手をかけて、又野と同じ方向を見ていた三好も、すこし慌て気味で中腰になった。
「オイ。いけねえいけねえ。あの中に戸塚が居やがる」
「……ウン……居る。あの奴もテニスの連中に眼を付けとるばい。……不思議だ……」
 又野が深い、長い溜息を吐いた。
「不思議どころじゃねえ。早く隠れるんだ。俺達二人が揃っているのを戸塚に見られちゃ面白くねえ。……こっちに来たまえ」
 三好と又野は慌てて草の中から立上った。二人とも何気なくバットの吸いさしを投棄てて、薄暗い汽鑵場へ引返《ひっかえ》した。ボイラーから程遠い浴場の煉瓦壁に、三ツ並んで残っている古いパイプの穴から、肩をクッ付け合わせてテニス・コートを覗いた。二人の眼の前にコスモスが眩しくチラチラして邪魔になった。
 ネットはもう張られていた。
 第一製鋼工場の副主任の中野学士と、職工の戸塚と、事務室の若い人間が三人来て軟球の乱打ちを初めていた。中野学士と戸塚が揃いの金口を啣《くわ》えていた。
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