俺も思い出いた。云うのを忘れとった。四角に折ってあったなあ」
又野が、悪い事をした子供のように肩を窄《すぼ》めた。その横で戸塚が冷笑した。
「アハ。汗を拭くのは大抵ハンカチにきまってるじゃねえか」
「ウン。それもそうじゃなあ」
「しかし出来るだけ詳しく話せって云ったからな」
「ウン。それあそう云ったさ。しかしハンカチ位の事あ、どうでもいいだろう」と戸塚が事もなげに云い消した。三好が頭を掻いた。
「そうだろうか」
「そうだともよ。ナアニ。じきに捕まるよ。指紋てえ奴があるからな」
「木工場も鋳物工場の奴等も、呉工廠《くれこうしょう》から廻わって来た仕事が忙がしいので、犯人が通ったか通らないか気が付かなかったらしいんだな。なあ戸塚……お前が通り抜けた時も、何とも云わなかったかい」
「ウン。慌てていたせいか、鋳型を一箇所|踏潰《ふみつぶ》したんで、怒鳴り付けられただけだ」
又野が大きな欠伸《あくび》を一つした。
「ああ睡むい。帰ろう帰ろう」
しかし三人の職工の予期に反して、この犯人はなかなか捕まらなかった。
二千人以上居る職工の身元の全部が、虱潰《しらみつぶ》しに調べ上げられたが、その結果は意外にも一人も居ない筈の赤い主義者の潜行分子が二三人発見されただけで終った。いよいよ職工以外の人間に着眼されなければならぬ順序になったが、しかしどこから見当を附けていいか、わからないらしかった。
新聞では盛んに書き立てた……白昼の製鉄所構内で衆人環視の中《うち》に行われた、天魔の如く大胆なる殺人強盗……犯人は大地に消え込んだか……実見者又野末吉氏談……前代未聞の怪事件なぞと……殊に後頭部を粉砕されながらも勇敢に抵抗した西村会計部員の奇蹟的な気強さを、製鉄所長と医学博士の談話入りで賞讃した。
西村の葬式は会社葬で執行された。職工たちの俸給はそれから二日遅れただけで、滞《とどこお》りなく渡された。
起業祭も寧《むし》ろ平常よりも盛大に行われた。又野は皆から勧められて渋々角力に出場したが、懸賞附の五人抜にはどうしても出なかったので、賞金は柔道の出来る構内機関手の手に落ちた。
そのうちに一箇月経つと警察もとうとう投出したらしく「遂に迷宮に入る」という新聞記事が出た。「十二万円の金の在所《ありか》と、犯人を指摘した者には一割の賞金を出す」という製鉄所名前の広告と一所に……。星浦製鉄
前へ
次へ
全23ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング