不可能だと信じ切ってアンナ事を云うのです。
こうした点を、よく注意して考えてみますと東作老人は、その事件当夜に麻酔をかけられていた者ではないかという疑いが可能になって来るようです。脳髄の機能をここで説明すると時間を取りますが、東作は相当の酒飲みなので、十分……十二分の麻酔をかけたつもりでも、半分ぐらいしか掛かっていない事が医学上あり得るのです。半醒半睡の時には、よく東作のようなハッキリした月や太陽を見たり、半自覚的な夢中|遊行《ゆうこう》を起したりする事があるのです。東作自身の翌朝の身神の疲労、倦怠、頭痛、口中や鼻腔の異臭、不快味なぞは皆、こうした推理を裏書きにしている事になりますので、結局するところ、東作の夢中遊行……晦日《みそか》の闇夜に見たという満月や、銀色の大汐浪なぞいうものが、東作自身の現場不在証明になって来ると同時に、犯人の手口に関する有力な手がかりを証明していると思います。
ですから犯人は多分ロスコー氏の留守を狙っていたものでしょう。この部屋に酔って寝ている東作を麻酔させておいて、軒下の漆喰《しっくい》伝いに足袋でも穿いて玄関へまわれば、足音も聞えず、足跡も残りませぬ。万一|過《あやま》ってマリイ夫人に騒がれるような事があってもタカが女一人……という犯人の心算ではなかったでしょうか。もっともこれはまだ、僕の臆測の範囲を出ていない話ですが……」
犬田博士の話の切目を待兼ねていた司法主任が、多少の興奮気味に佩剣《はいけん》の※[#「木+霸」、第3水準1−86−28]《つか》を引寄せた。
「……そうすると……先生のその臆測では……その犯人は麻酔剤を使用し、万能鍵を持っている奴ですから……相当の奴ですね」
犬田博士は軽く手を振って笑った。
「ハハハ。イヤ。まだ部屋の中を見ないのですから結論を附けるには早過ぎます。目下のところ、確定しているのは東作が犯人でないことと、犯人らしい奴が麻酔薬の使用に狃《な》れている事と、この二つだけです。しかしソンナ犯人が、この方面へ立廻わった形跡があるのですか」
司法主任はちょっと返事を躊躇して署長の顔を見た。署長は鷹揚にうなずいた。
「フウム。彼奴《きゃつ》とするとチット立廻わり方が早過ぎるようじゃがなあ。この家の周囲や、出入りの模様を研究するだけでも一週間ぐらいかかる筈だが……彼奴《きゃつ》だとすると……」
「ちょっと待って下さい」
犬田博士は透かさず手を揚げて制した。
「もうすこし犯人に関する証跡が上るまで待って下さい。最後まで研究してみて、その犯人にピッタリ来るかどうかが問題なのですから……指紋は一つも無いでしょう……どこにも……」
署長が無言のまま眼を丸くして犬田博士の顔を見た。同時に司法主任がハッと強直した。そうして二人とも小供のように犬田博士の顔を凝視したまま点頭《うなず》いた。それは犯人が決定しかけている直前の緊張した、感激に満ち満ちた瞬間であった。
アトから聞いたところによると、この事件の終始を通じてこの時ぐらい署長と司法主任が度肝を抜かれた事はなかったという。もちろん犬田博士は、まだこの家の内部を一度も調べた事はなかったが、一番最初に署長の話を聞いた時から指紋が一つも残っていない事をアラカタ察していたので何気なくこう云ったものであったが、この時に署長と司法主任の警部の想像に浮かんでいた犯人の特徴の一つとして、手配されて来た書類の中に「如何なる場合にも指紋を残さず」という一項が特筆されていたので、その点不意討式にズバリと云い当た犬田博士の言葉に、二人とも殆んど神に近い敬意を感じたという。
続いて犬田博士は数人の専門家が鋭い眼を光らしている前で、犯人の侵入路と確認されている玄関の扉を調べたが、何も新しく得るところがなかったので、直ぐ横の寝室の扉の前まで来た。
「この扉には万能鍵を用いた形跡はありませんね」
予審判事と主任警部が同時にうなずいた。犬田博士もうなずいて微笑した。
「マリイ夫人はロスコー氏が持って出て行った玄関の鍵一つで安心して、この扉には鍵を掛けずに眠っていた訳ですね。マリイ夫人は、そうした点まで気が強かった……極端にいうと女らしくない程度にまで大胆不敵な男|優《まさ》りであったとも考えられるようですが……どんなものでしょうか」
今度は予審判事と特高課の二人が同時にうなずいた。予審判事は静かに云った。
「夫人の寝台の下に在った鍵束には、この扉に合う鍵が二つ在りました。しかしロスコー氏の遺骸のポケットから発見された鍵束には、この扉の鍵が無かったのです」
そうした説明を聞いているうちに犬田博士は、その寝室の扉をピッタリと閉めて、鍵穴から内部を覗いてみた。そうして自分の跪いた膝小僧の正面に当る扉の青ペンキ塗の表面に見当をつけて、指紋検出用のアルミニューム粉末をしきりに撒《ふ》りかけていたが、やがて犬田博士の膝よりももすこし下部に当る処から不等辺三角形に重なり合った、荒い皮膚の褶紋を発見すると、流石に嬉しかったと見えて、真赤に上気した額の汗を拭き拭き一同に指示した。
「この犯人は、やはり日本人ですね。日本人でない限り膝小僧を露出する犯人は居ない筈ですからね。しかしかなり背の低い奴と見えて、しゃがんでこの鍵穴を覗く拍子に、過《あやま》ってコンナ処に膝小僧を押付けたのです。多分本人は無意識の中に忘れてしまっているだろうと思いますが……」
署長も太いため息をしいしい安心したように汗を拭いた。蒲生検事をかえりみて云った。
「これだからR市にも鑑識課を一つ置いてくれと僕がイツモ云っているんだよ」
一同がソレゾレに同感らしく首肯《うなず》いた。
そのうちに犬田博士は寝室に這入った。屍体を除いた以外の情況は、その当時のままになっている寝台の上下左右を詳細に調べた後に、検事をかえりみて云った。
「その当時に使用した電燈のコードは、この寝台の下に転がっている豆スタンドのものでしたかね」
横合いから司法主任が引取って答えた。
「そうです。ここに持って来ております」
と云う中《うち》に自身に提《さ》げて来た中位の箱鞄の中から新聞包みのコードを取出した。
「そのコードの犯人が手で握った処の折れ曲りなぞもその時の通りですか」
「そうです。その点を特に注意して保存しておきましたが……」
犬田博士の顔に云い知れぬ満足の色が浮んだ。
「それはどうも結構でした。一寸《ちょっと》拝見……」
と云う中に犬田博士は鄭重な手附でコードを受取ったが直ぐ司法主任を振返った。
「これは一巻き巻かっていたのですか」
「イヤ二巻《ふたまき》です。御覧の通りマリイ夫人が吐出《はきだ》した血が三個所に附着しております。その血痕のピッタリ重なり合う処が、マリイ夫人の首の太さになっておりますわけで……」
「いかにも……成る程。してみると犯人はマリイ夫人が眠っている間にソッと二巻き捲いておいて、突然、絞殺に掛った訳ですね」
「そうです……ですから計画的な殺人と認めているのですが……」
犬田博士は調査を終った寝台の端に片足をかけて、足首の上の細い処へ、そのコードを二巻、捲付けた。犯人の力で折曲った処を、その通り掴んだままギューギューと絞めてみた。そうしてコードにコビリ付いている血痕の三個所の中心が、完全に重なり合う処まで来ると、緊張した表情のまま検事をかえりみた。
「……この犯人は、やはり小男ですね。このコードの折曲りを起点とした力の入れ工合を見ると、肩幅が普通人よりも狭いようです。東作老人もロスコー氏も肩幅が並外れて広いのですからね。ほかの西洋人は勿論のこと、日本人でもコンナに狭いのは先ず珍らしいでしょう」
「どうして麻酔剤を使わなかったでしょうか」
と蒲生検事が質問した。犬田博士は苦笑しいしい顔を掻いた。
「さあ。その点は私にもわかりませんがね。恐らくこの事件の中では一番デリケートなところでしょう」
それから犬田博士は寝台の上にかけて在った羽根布団をめくってシーツの表面に残る隈なく拡大鏡を当てがってみた後に、署長と、検事、判事、司法主任を招き寄せた。ズボンのポケットから洋服屋が使うチャコを抓《つま》み出して、四人の眼の前のシーツの上に大きな曲線を描き初めた。
「御覧なさい。ここがマリイ夫人の頸部に当る処です。口から腮《あご》へ伝わった血液がここに泌み付いております。それからこの黄色の斑紋は死後に放尿した処で、この二個所を基点として、死体の最後の位置を描いてみますと、コンナ形状位置になりましょう。つまり西洋婦人としては幾分小型ですが、日本の普通の男子よりもすこし大きい位の体格です……ね。
そうだったでしょう。
ところでこのマリイ夫人の臀部の向って右側のここに極めて淡い黄色の斑点があらわれております。これは事件直後には誰にも気附かれていなかったものが、この数日の中《うち》に空気に触れて変色、現象されたもので、マリイ夫人の或種の体液が、格闘の最中にどうかして犯人の露出した右の膝頭に触れたものが、この個所に力強く押付られていたのを、犯人も気付かずにいたものと考えられます。それからこっちの裾の方に在る二つの薄黒い斑紋は形状から見て、犯人の足袋の爪先に附着していたホコリの痕跡と思われますが、これも相当に力強くプレスされたために辛うじて残っているので、肉眼では殆んど見えませぬ。この右の膝頭と、爪先の寸法から目測してみますと、犯人が五尺あるかなしの小男である事がわかります。いずれ帰ってから本式に計算した書類を差出しますが……」
と説明しながら犬田博士はポケットから小さな巻尺を取出して、薄黄色と、薄黒の二つの斑紋間の距離を測定して手牒に記入した。
山口老署長は喜びに堪えないかのように額を輝やかしながら傍の司法主任の警部をかえりみた。
「ヤッパリ彼奴《きゃつ》だね」
「そうです。間違いありません」
と警部も満足らしくうなずいた。
「指紋を一つも残しておりませぬので万一、彼奴《きゃつ》じゃないかとも思っておりましたが……」
「ウムウム。しかし彼奴《きゃつ》はコンナ無茶な事を決してせぬ奴じゃったが……それに物を一つも盗っておらんところが怪訝《あや》しいでナ」
「そうです。そのお蔭で捜査方針が全く立たなかったのです。イヤ、助かりましたよ」
「君等の方で東作老人を拘留してくれたんで、これだけの緒《いとぐち》が解けて来た訳だね。東作が大|晦日《みそか》の満月を見てくれないと、一番有力な手がかりになっている麻酔の一件が、まだ掴めないでいる訳だからね。ハハハ。イヤ。お手柄だったよ」
と蒲生検事が慰めた。真赤になった山口老署長が帽子を脱いで汗を拭いた。
「この膝小僧の褶紋を本人のと合せて御覧になったらイヨイヨのところがわかりましょう。指紋と同じ価値があるのですから」
司法主任の警部は検事、判事、署長と何事かヒソヒソと打合わせている中《うち》に、大急ぎでロスコー家を出て行った。それは時を移さず手配をするために、倫陀病院の電話を借りに行ったものであった。
しかし犬田博士の活躍はまだ終りを告げなかった。
それから犬田博士は二人の特高課員と協力してロスコー家の内外を隈なく捜索した。その結果、浴室の天井裏のタイルの裡面から重要な機密書類を、夥しく発見したそうであるが、その内容は窺い知る由もない。ただその後の調査によって、その時までロスコー家に掛けられていた国際スパイの嫌疑に関する主犯者は他ならぬマリイ夫人に相違ない事が確認されたという。すなわちマリイ夫人はその美貌と、刺青とを利用する親譲りの国際スパイであった。その背部に施してある刺青の中で、普通よりも引歪《ひきゆが》められている部分を、直線で連絡してみると一つの旧式要塞の図になっていて、星は望楼、花は砲台、雲は森林として配置されている事が判明した。同時に夫のロスコー氏はその従犯で、夫人の命令のまにまに与えられた地形図を図案化して刺青する技術師に過ぎなかった。又、雇男の東作は、そんな事を全然知らなかったらしく、ロスコー夫婦の常識を超越した変態恋愛
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