遊戯に閉口させられながらも、先代以来の恩を思って一途に忠義立てをしていた者であった事がその後、数次の取調《とりしらべ》によってヤット了解された事を附記し得るのみである。そうしてそのような事実が、この事件の本質的な興味とは全然、無関係なものであった事も、冒頭に述べた通りである。
尚、犬田博士はこの時に、自分の研究の参考資料として、ロスコー家の刺青研究に関する書類を、事件に直接関係のない部分だけ貰い受けたいと申出たが、それは犯人の就縛後、一年半以上経過してから許可された。そうして惜しい事に、この間のR大学、法医学部の怪火事件の時に焼失してしまった事を併せて附記しておく。
犯人はやはり犬田博士の推測通りの、五尺一寸足らずの小男であった。S岬事件の起る二週間前に、相当遠距離に在る刑務所を出ると間もなく、各地を荒しまわったために、R市方面へも手配されていたマヤクの音《おと》(本名堅村音吉三十七歳)という前科数犯で、家人に麻酔を呉《く》れて、騒がれない用心をして金品を奪うのを専門にしている有名な兇賊であったが、S岬事件後、六個月程経って、R市から百|哩《マイル》ばかり距たった大都市の遊廓で、古い狃染《なじみ》の女と遊興中、同市の敏腕な刑事に怪しまれて逮捕されたものであった。
その時の自白によると音吉は、R市の某|饂飩《うどん》屋で天丼を喰っているうちに、嘗てマリイ夫人を見に行った事のある中学生連中の雑談から、S岬の地形や、ロスコー家の建築の概要、生活状態なぞを聞出し、究竟《くっきょう》の稼ぎ場と考え付いた。それがちょうどあの土曜日の夕方だったので、その饂飩屋の電話室に這入って市内の石油ストーブ屋の名前を探し出して、その名前でロスコー氏の奉職している石油会社に電話をかけて給仕を呼出し「ロスコーさんに自宅でお眼にかかりたいが」と鎌をかけてみた。そうして「ロスコーさんは今夜はお宅へお帰りになりませんから、コチラへお出で下さい」という返事を聞くと、好機逸すべからずと思ったので、それ以外の事は全然無計画のまま、約二人分の麻酔薬を手に入れ、大胆にもR市の海岸に在る貸ボート屋の櫂《かい》を二本盗み出し、左右のクラッチの穴へ二本の手拭を通して櫂《かい》を結び付け、暗夜を便りにS岬の岩角に漕付《こぎつ》け、中学生の話の通りに岩山を越えてロスコー家に忍び寄り、先ず電話線と呼鈴《よびりん》線を切断し、酔臥《よいふ》している東作を麻酔にかけ初めたが、案外麻酔が利かないのに驚いた。持って来たエーテルとクロロフォルムを最後の一滴まで使用してヤット目的を達したように思った。そこでアトはマカリ間違っても高の知れた女一匹という了簡で、勇敢に玄関の扉の鍵をコジ開けたものであった。
それから目的の書斎に忍び込むべく、寝室を通過する時に、天井からブラ下った仄暗い一|燭《しょく》の電燈の光りでマリイ夫人の寝姿を見ると、フト妙な気持になったので、枕元の豆スタンドのコードを取外して絞殺にかかってみると、女と侮《あなど》ったのが大間違いで、驚くべく猛烈な抵抗にぶっつかり、夢中になって格闘の結果、やっと目的を達したという。つまり「犯人は十分の研究を遂げた後に忍び込んだもの」という最初の推測だけが、見事に外れていた訳で、その他の部分はかなり精確に的中していた事になる。だから音吉は最初、知らぬ存ぜぬの一点張りで、極力、殺人の重罪を免れようと試みたものであったが、司法主任から現場に突付けられて、その犯行当時の手順から、心理状態なぞを順序正しく訊問されて、最後にシーツに刻印されているその長さと、電燈コードに残っている肩幅と、その膝頭の褶紋とを突合せられると、流石の音吉も汗ビッショリになって恐れ入ってしまった。
「そこまで御調べが届いていちゃ白《しら》を切っても間に合いませぬ。私の運の尽きで御座いましょう。女|毛唐《けとう》を殺したのは私に相違御座いませぬ。今までシゴト(窃盗専門の意)以外には女なんか振向いた事もない私で御座いましたが、あの晩に限って魔がさしたので御座いましょう。……ドウモあの刺青がイケなかったようで……薄暗い電燈の下にハダカっている真白い、雪のようなお乳の横に、毒々しい真青な花ビラが浮上って、スヤスヤと寝息をしているもんですから、ツイ妙な気持になってしまいました。私の一生の縮尻《しくじり》で御座いました。女ってえものはヤッパリ魔者なんで……ヘヘヘ……。
何も盗《と》らずに逃出しました理由は、ほかでも御座いませぬ。あの女毛唐を片付けてホッとしておりますうちに、波の音一つ聞こえない位シインとなっている硝子《ガラス》窓の外の暗《やみ》の中で、微かに草履を引ずるような音がゾロゾロッと聞こえたのです。私は思わずハッと固くなってしまいました。生れて初めて人を殺しましたので気持がどうかなっていたので御座いましょう。何だか知りませんが恐ろしく周章《あわ》ててしまいました。大急ぎで天井裏の親子電球を引っぱり消して、垂れていた窓掛をマクリ上げて、硝子《ガラス》窓にオデコを押付けて(註=この硝子《ガラス》窓に押付けられた額の肌紋は、犬田博士も見落していた)眼を定めておりますと、思いがけない一人の大きな人間の姿が、眼の前の白壁の前を横切って、小使部屋の入口の方へ参りましたが、その時にその人間がタッタ今、普通の人間の二倍ぐらい麻酔を噛ませて来た小使の白髪《しらが》爺さんに相違ない事がわかりました時には、頭からゾーッと水を浴びせられたような気持になりました。しかもその白髪爺さんは、もう一度入口から出て来て、白壁の前を通抜けるのを見ますと、何だか白く光る刃物のようなものを……コンナ風に……逆手《さかて》に持っているようで……そいつが真正面を見詰めたまま反《そ》り身になって、解けかかった帯をダラリと背後に引ずりながら、神主さんみたいな足取りで、スウスウと真暗な松原の中へ曲り込んで行くようです。それを見ますと私はイヨイヨ恐ろしくてたまらなくなりましたので、女毛唐の死骸をホッタラかしたまま、後退《あとじさ》りをして玄関の外へ出ましたが、それから無我夢中であの岩山の上に駈登って、ボートの処へ降りようと致しますと、直ぐ近くの草原の中から不意に『ゴオリゴオリ』という鼾《いびき》の音が聞こえました時には、流石の私も肝ッ玉が飛上りました。モウ少しで気絶するところで御座いました。直ぐに草の中に身を伏せて、闇に狃《な》れた眼でよく見ますと、それはヤッパリ最前、麻酔させたばっかりの白髪頭の小使爺に相違御座いませぬ。逆手に持っていた刃物と見えたのは、白い瀬戸の燗瓶だった事までわかりましたが、もう引返すだけの勇気はありませんでした。それから一生懸命でボートを漕いで、海のマン中あたりまで来たと思ってホッとした時に、やっと髪毛がザワザワザワと逆立《さかだっ》て、歯の根がガタガタいい初めたような事で……あの時のように恐ろしかった事は全く、生れて初めてで、あの仕事ばっかりは最初から終《しま》いまで、魔がさし通していたような気がします。
しかし私が、あの爺さんに麻酔をかけた事が、どうしてお解りになったのか、どうも不思議で御座います。この麻酔の一件さえわからなければ、滅多に私と星を刺される気づかいはないと思って、出来るだけの用心をしていたつもりで御座いましたが……散らかるといけませんから脱脂綿の代りに、あの爺さんの古手拭を使いましたし、爺さんの寝姿は酔払って寝ているとしか思えませんでしたし、薬瓶は二つとも途中の海の上で棄ててしまいましたし、アトから本人が思い出す気づかいは尚更ありませぬ筈なのに、まるで現場で見ておいでになったようなお話で……」
と眼をパチクリさせていたという。但、音吉がソレ程に巧妙な麻酔薬の使用法をどこで修得したか。如何なる手段で薬品を手に入れていたか……という事実は、遺憾ながら聞落《ききおと》した。当時のR署員は悉く転任してしまっているし、犬田博士も物故している今日、筆者としては再び探り出す便宜がないようである。
東作老人はまだ生きている。どこか単純な、愚鈍な性格を持っているらしく、九十幾歳の高齢でありながら、娘夫婦が諫《いさ》めるのも聞かずに、R市の某病院の炊事夫をつとめている事が、この間、ちょっとした新聞記事に出ていた。
底本:「夢野久作全集10」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年10月22日第1刷発行
入力:柴田卓治
校正:ちはる
2001年1月31日公開
2006年2月21日修正
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