署長から詳細の話を聞いた法医学教授犬田博士は、老境に及んで激務に従事している旧友の立場に、同情したものであった。
「それは丁度よいところへ来てくれて有難い。僕は今まで法医学研究の立場から、刺青に関する研究をやってみたいと考えているにはいた。刺青というものを各国別と、各職業別の双方の観点から研究して整理する事は非常に困難な、同時に貴重な仕事で、現に僕も独逸《ドイツ》人と仏蘭西《フランス》人の著書を一冊|宛《ずつ》持っているにはいるが、しかし君の話を聞いてみるとそのロスコー氏の研究こそは僕の理想に近いものではないかと考えられる。とにかくそのような熱心な刺青の研究家が、この附近に居る事は全く知らなかったのだから、是非とも同行してそのロスコー氏の遺物である刺青の研究書類を見せてもらいたいものだ」
というので即日、R警察署に出頭し、蒲生検事、市川予審判事、山口署長、特高課員、司法主任立会いの上で、R署に保管して在ったS岬事件の被害者マリイ夫人と、自殺者ロスコー氏の屍体に残っている刺青のブロマイド写真を見せてもらって、極めて念入りな比較研究を遂げた。次いで例のロスコー家の日本製の金庫の中から出て来た書類や、写真のそこ、ここを拡大鏡で精細に覗きまわり、最後に刺青の道具を容れた銀の箱を開き、片隅に詰めてある、小さなアルコールとコカインの中味を嗅ぎ比べ、または舐《な》め、India Rubber と彫った小型の銀筥《ぎんばこ》の中の青墨をコカインに溶いて手の甲に塗ってみるなぞ、相当時間をかけた熱心な調査の後に、胡麻塩《ごましお》頭をモジャモジャと掻きまわし、山羊鬚《やぎひげ》を撫で揃え、瘠せこけた身体《からだ》に引っかけた羊羹《ようかん》色のフロックコートの襟をコスリ直した犬田博士は顔を真赤にして謙遜した。
「この程度の説明なら、私にも出来ますが……」
とニコニコ顔で近眼鏡を拭き拭き一同に向って咳払いをした。
「これはドウモ貴重な文献ですな。この書類は皆ロスコー氏の父君、M・A・ロスコー氏と、今度自殺されたというJ・P・ロスコー氏の合同の研究に係るもので、刺青の技術を主眼とした各国別と、各職業別になっておりまして、恐らくこの原稿が出版されましたならば世界有数の権威ある刺青の研究書になるであろうと信じます。
冒頭の序文に拠りますと、全体の約三分の二が父、M・A・ロスコー氏の蒐集写真と、その記述に係っており、後尾、約三分の一は子息、J・P・ロスコー氏の仕事という事になっております。各項の末尾に、それぞれ調査日附とロスコー父子もしくは特志な寄稿家の署名が添えてあります。
尚序文に拠りますと父、M・A・ロスコー氏は×国の化学者サア・ロスコー氏の近親で、有名な大政治家G卿と、その政敵のS卿の両氏から同時に信用されていた外交官だったそうです。そのM・A・ロスコー氏の足跡は西班牙《スペイン》、土耳古《トルコ》、智利《チリ》、日本、等々々の一二等書記官どころを転々し、最後に支那、香港《ホンコン》の領事として着任しているようですが、その間に自分の趣味として手の及ぶ限り刺青に関する写真や、文献を蒐集したもので、しかも自身に各地の刺青の技術者に就いて実地の研究を遂げ、結局、支那と日本の技術が世界的に、最優秀である旨を、一々的確な例証を挙げて記述しているのですから驚くべく真剣な研究と考えなければなりません。
――一番最初に掲げて在る一枚は一八八六年に撮《と》ったルーマニアの皇族フロリアニ伯爵とありますが、それから後に着手された調査が、今日まで約四十年の長日月に亘っておりまして、途中一九一九年に到って子息のJ・P・ロスコー氏が父の死により研究を引受けた旨が記載してあります。
――問題の東作の刺青の写真は相当古いようです。日附は一九〇四年の四月になっておりますし、刺青の手法は全然日本式で、しかも徳川時代の遺法を墨守していた維新後二十年以内の図柄ですから、東作は兎《と》にも角《かく》にも先代のロスコー氏を、よく知っている筈と思われます。
――また息子のJ・P・ロスコー氏の屍体に残っている刺青は、左の二の腕に彫ってある分を除き、背部の全面がサラミス海戦の図になっておりまして、その古代船艦や、波濤や、空を飛ぶ神々の姿まで、非常に細かい線描になっているようですが、それがドコまでもムラのない黒の一色でボカシも何もない。その細い線の断続の工合から見ても明らかにコカインの使用法を知らない、外国でも旧式の手法に属するもので、事によると父、M・A・ロスコー氏が練習のために自身で施術してやったものではないかという想像が可能のようです。
――それからその次に非常に面白い事があります。それは外でもありません。自殺したJ・P・ロスコー氏の左の二の腕に在る刺青と、マリイ夫人の全身のソ
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