係官の一行は今更のように狼狽した。まだ息を切らしている弓削医学士と一所《いっしょ》に現場に急行してみると、正に報告の通りで、裏庭の外海に面しているロスコー氏の病室内は、額縁や、薬瓶、植木鉢、泥、砂礫、草花、その他の器物や硝子《ガラス》の破片が、足の踏場もなく散乱している中に、脳漿《のうしょう》が飛散り、碧《あお》い両眼を飛出さしたロスコー氏が、鮮血の網を引被《ひっかぶ》ったまま穢《よご》れたピストルをシッカリと握って、寝台の上から真逆様《まっさかさま》に辷《すべ》り落ちている光景は、マリイ夫人の死状にも増して凄惨な、恐怖的なものであった。
警察の捜査方針はここに於て五里霧中に彷徨する事となった。出ない月を見た東作の陳述だの、事件の全体に因縁深く蔽い被《かぶ》さっているらしい英文の刺青に関する書類や写真だの、その説明の鍵を握っていたであろうロスコー氏の突然発狂の自殺などいう事実なぞを重ね合わせて考えてみると、蒲生検事を初め係官一同のアタマが、いつの間にか実際的な着眼点を見失なって、探偵小説式な架空や想像、推理の渦巻の中にグングン捲込まれて行くのであった。全体に痴情事件らしく見えながら、半分は巧妙な窃盗犯の手口も加味されている。単なる他殺が単なる他殺でなく、単なる自殺が単なる自殺でない……といった風に考えなければ、大変な間違いに陥りそうな気がして来たので、流石に老練の蒲生検事もウッカリ断定が下せなくなった。類犯ばかりを標準にして判断を附けるのが習慣のようになっている刑事連中などは、ただもう面喰ってしまっていた。これは到底吾々の手に合う事件じゃない。毛唐人の気持なんか吾々にわからないんだから……などと逃腰になる者さえ居た。
以上の報告を司法主任の警部から詳細に亘って聴取したR市警察の山口老署長も、やはり判断に迷ってしまったのであった。
普通の場合だと検事に対する部下の不平なぞを聴いてやって、シッカリ頼む……とか何とか激励するだけで、差出た意見を附加《つけくわ》えたり何かしないのが、温厚を以て聞こえた山口老署長の本分みたような習慣になっていたのが、今度という今度ばかりは例外になって来た。……というのは丁度その時に県庁の特高課が、ロスコー氏の自殺を重視している事がわかった。確かな理由は不明であるが、ロスコー氏の行動はズット以前から極秘密に特高課の監視を受けていたものらしく、その自殺を聞知した私服の特高課、外事課員が二人、山口署長に極秘密で面会し、事件の真相を聴取したいと申出た。その序《ついで》に……ロスコー氏の奉職している石油会社の本社でもこのS岬事件を相当重視しているらしい。R市支社の重役で日本語の達者なドラン氏が本日、識合《しりあ》いの特高課長の処へ出頭して、ロスコー氏の死因は自殺か、他殺か。本国へ打電する必要があるから極く内々で説明してもらいたい。東京の本社から人事係長(外人)と海軍大尉上りの日本人重役の二名が本日午後の急行で東京を出発したという電報が来たから、その二名が到着しない前に真相が判明していないと自分の責任になる虞《おそれ》があるので是非説明して欲しい。さもなければ当市の裁判所の検事か警察署長に紹介してもらいたい……というので非常に鄭重な態度で哀訴歎願して来た……という事実を外事課員が洩らしたので俄然、事態が二重、三重の意味で緊張して来た。流石に着実温厚を以て聞こえた老署長も、これには少々狼狽させられた。さもなくとも正体の掴みにくい事件の真相を最大限二三日の中《うち》に片付けなければ、日本の警察の威信に関するのみならず、愚図愚図《ぐずぐず》すると面倒な国際問題にまでも引っかかって行きそうな形勢になって来たので、ジッとしておれなくなった。
ところが幸いに最初からこのS岬事件に関係していた蒲生検事は、署長の同郷で、懇意な間柄だったので、そこに一道の活路が見出された。山口老署長は、やはりその夜の中に極秘密で蒲生検事に面会して色々と懇談を遂げた結果、とにかくその「刺青」なるものに就いて専門家の意見を聞いた上で、何とか方針をきめる事にしたら、どうであろう。いずれにしても、そんな奇怪な書類を中心にして、刺青をした人間ばかりが寄集まっている点が不思議といえば不思議である。しかも「刺青」の話に関する限り東作爺が頑として口を開かないところを見ると、そこに事件の秘密を解く鍵が隠れているのじゃないか……といったような事にアラカタ意見が一致したが、しかしR市のような比較的狭小な都市に刺青の研究家なぞいう者は居そうにない。むろん別にコレという程の心当りもないので、取敢えず、これも署長の小学時代の同窓として懇意なR大学の法医学教授、犬田博士を招いて、意見を聞いてみてはどうであろう……という事になった。
出張から帰ると間もなく、山口老
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