レとは全然手法が一致している事です。もっとも図柄は全然違います。ロスコー氏の左腕のは、錨と、海蛇を組合わせた海員仲間にありふれた種類のものです。これに反してマリイ夫人のは優しい花や星なぞですが、いずれも局部を麻痺させるためにコカインを使用したものらしくロスコー氏の背部のソレよりもかなり濃厚、明確な線を用い、図形が近代画の手法で歪《ゆが》められておりまして、雲や星なぞ、後期印象派の匂いの高い曲線や不整直線を用いている点が共通しているところを見ますと、夫人の肉体に対する若いロスコー氏の変態恋愛、もしくはマリイ夫人のロスコー氏に対するマゾヒスムス傾向の両者が生み出した要求のあらわれではないか。その結果こうした若い西洋婦人としては稀有の施術が行われたものではないかという事実が推定されるように思います。要するにロスコー氏の左腕の刺青はマリイ夫人に施術する前に、ロスコー氏が試験的に、最近式のコカイン墨の使用法を研究してみた者ではなかったでしょうか。
 尚、以上の事実を確かめるために、目下拘留中の東作老人に一度、面会させて頂く訳に行かないでしょうか。私が特別に自身で質問してみたい事がありますから」
 蒲生検事、市川判事、山口署長以下、皆、こうした犬田博士の説明を聞いているうちに一旦、事件の表面を被《おお》うている不可思議な悪夢から呼醒まされて、更に又、今一度、一層恐ろしい悪夢の中に突落されたような気がしたという。そうして皆、今まで全く世に知られていなかった犬田博士の頭脳の偉大さを初めて知って、驚愕し且つ尊敬し初めたもので、この事件に限って犬田博士をモウすこし自由に活躍させてみたくなったという。

 署長室に引っぱり出された東作爺は、もうかなりの高齢らしかった。しかし若い時分に相当の苦労をしたらしく、石油会社の印袢纏《しるしばんてん》と股引《ももひき》に包まれた骨格はまだガッシリとしていて、全体に筋肉質ではあるが、栄養も普通人より良好らしく見えた。手錠をかけられたまま観念の眼を閉じて、犬田博士と正対した椅子に腰をかけさせられると、気力の慥《たし》かなスゴイ瞳をあげて、博士の顔をジロリと見ると又ヒッソリと瞼を閉じた。その豊富な角苅《かくがり》の銀髪とブラシのように生やしたゴリラ式の狭い前額《まえびたい》と太い房々とした長生眉《ながいきまゆ》と、大きく一文字に閉じた唇を見ると、成る程これならば嫌疑の掛かるのも無理はないと考えられそうな野性的な、頑固一徹の性格をあらわしていた。
 しかし犬田博士は平気であった。その東作爺のモノスゴイ視線を、博士一流の柔和な、親切そうな微笑でニッコリと受流しながら朝日を一本吸付けて一文字の口に啣《くわ》えさしてやった。それから自分も一本火を点《つ》けて啣えながら、今一度ニッコリとして椅子を進めた。
「爺さん。御苦労だったね。お前に罪の無い事は僕が知っているよ。だから今となっては何もかも洗い泄《ざら》い話した方がよくはないか。その方が娘さん夫婦のためになると思うがどうだね。ロスコー家の秘密を何もかも話してくれないかね。ロスコーさんは、あれから直ぐに自殺してしまったんだからね」
 博士の言葉が終らないうちに東作老人が、口に啣えてスパスパ美味《うま》そうに吸っていた煙草をポロリと膝の間へ落した。ロスコー氏の自殺を知って、よほど驚いたらしく、顔色を見る見る青くして、顔面筋肉をビクビクと痙攣さした。シッカリ閉じた両眼から涙をハラハラと流してうなだれると、前よりも一層固く口を閉じてしまった。その態度を見ると犬田博士は、なおも一膝すすめた。
「なあ東作爺さん。ロスコー家は先代のお父さんからして非道《ひど》い刺青キチガイであったが、今の若いロスコー君も、先代に一層輪をかけた刺青キチガイだったのだろう。それがいつの間にか奥さんのマリイさんに伝染してしまったが、お前は一切そんな事をロスコー夫婦に口止めされていたんだろう。お前はちょうど日露戦争頃に先代のロスコーさんと識合《しりあ》いになって、それ以来ずっと、ロスコー家に奉職していたんじゃないか。その先代にも、お前はやはり刺青の事を口止めされていたので、お前はロスコー家に居る限り、娘夫婦の幸福のために、ロスコー家の秘密を喋舌《しゃべ》らない事にきめていたんじゃないか。まだまだ詳しい事がスッカリ調べが附いているんだから、隠したって無駄だよ。……お爺さん……」
 東作老人はここまで云って来た博士の言葉のうちに太い溜息を一つした。司法主任から啣え直さしてもらった朝日を吸い吸い嗄《しわが》れた、響の強い声でギスギスと話しだした。マン丸く開いた正直者一流の露骨な視線を、犬田博士の真正面に据えながら……。
「ヘエイ。かしこまりました。ロスコーの若旦那がお亡くなりになりましたのは、やっぱりまったくなんで
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