うかなっていたので御座いましょう。何だか知りませんが恐ろしく周章《あわ》ててしまいました。大急ぎで天井裏の親子電球を引っぱり消して、垂れていた窓掛をマクリ上げて、硝子《ガラス》窓にオデコを押付けて(註=この硝子《ガラス》窓に押付けられた額の肌紋は、犬田博士も見落していた)眼を定めておりますと、思いがけない一人の大きな人間の姿が、眼の前の白壁の前を横切って、小使部屋の入口の方へ参りましたが、その時にその人間がタッタ今、普通の人間の二倍ぐらい麻酔を噛ませて来た小使の白髪《しらが》爺さんに相違ない事がわかりました時には、頭からゾーッと水を浴びせられたような気持になりました。しかもその白髪爺さんは、もう一度入口から出て来て、白壁の前を通抜けるのを見ますと、何だか白く光る刃物のようなものを……コンナ風に……逆手《さかて》に持っているようで……そいつが真正面を見詰めたまま反《そ》り身になって、解けかかった帯をダラリと背後に引ずりながら、神主さんみたいな足取りで、スウスウと真暗な松原の中へ曲り込んで行くようです。それを見ますと私はイヨイヨ恐ろしくてたまらなくなりましたので、女毛唐の死骸をホッタラかしたまま、後退《あとじさ》りをして玄関の外へ出ましたが、それから無我夢中であの岩山の上に駈登って、ボートの処へ降りようと致しますと、直ぐ近くの草原の中から不意に『ゴオリゴオリ』という鼾《いびき》の音が聞こえました時には、流石の私も肝ッ玉が飛上りました。モウ少しで気絶するところで御座いました。直ぐに草の中に身を伏せて、闇に狃《な》れた眼でよく見ますと、それはヤッパリ最前、麻酔させたばっかりの白髪頭の小使爺に相違御座いませぬ。逆手に持っていた刃物と見えたのは、白い瀬戸の燗瓶だった事までわかりましたが、もう引返すだけの勇気はありませんでした。それから一生懸命でボートを漕いで、海のマン中あたりまで来たと思ってホッとした時に、やっと髪毛がザワザワザワと逆立《さかだっ》て、歯の根がガタガタいい初めたような事で……あの時のように恐ろしかった事は全く、生れて初めてで、あの仕事ばっかりは最初から終《しま》いまで、魔がさし通していたような気がします。
 しかし私が、あの爺さんに麻酔をかけた事が、どうしてお解りになったのか、どうも不思議で御座います。この麻酔の一件さえわからなければ、滅多に私と星を刺される気づ
前へ 次へ
全29ページ中28ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング