う。刺青の写真を突付けられても、冷めたい眼でジロリと見たきり、頭を頑強に左右に振るばかりで、一言も洩らさない態度が、極度に野蛮な、反抗的なものに見える。……のみならずその昨夜というのは陰暦二十九日の暗夜で、月なんぞは出なかった筈なのに、白昼のような満月が光っていたというのが頗《すこぶ》る怪訝《あや》しい。なるほど大潮には相違なかったが、測候所に問合わせる迄もない夜通しの曇空で、月どころか、星の影も見えなかった筈だが……と何度念を押しても東作爺は只ビックリした顔で、不思議そうに警官の顔を見まわすばかりである。しまいには頭が痛いせいか、面倒臭そうに眼を閉じて、
「それは旦那方が旧の暦日を御存じないからです。昨夜はたしかに旧の十五日に間違いなかったのです。たしかにマン丸いお月様が出ておりました」
と落付いて頑張る表情が如何にも真剣で、不思議であった。だから、とにかく現在のところでは東作が一番怪しい。とりあえずマリイ夫人殺しの嫌疑者として拘引してみようではないかという事に係官の意見が一致した。そうしてこの上は程遠からぬ倫陀病院に行って、直接ロスコー氏に就いて前後の事情を訊問して、何等かの手がかりを掴むよりほかに方法はないというので、係官の一行が、やがてロスコー家を引上げて出かけようとしているところへ、今まで倫陀病院でロスコー氏に附添っていた代診の弓削医学士が、白い服を着たまま息|堰《せ》き切って転がり込んで来た。その報告を聞いてみると又、一大事である。
最前からマリイマリイと連呼して泣きじゃくっていたロスコー氏が突然に静かになった。寝台の上に起直って両腕をシッカリと組んで動かなくなった。僅かな間に見違えるほど物凄く瘠せ衰えた顔に、両眼をジイッと据えて、窓の外の青空を凝視したまま黙りこくっているうちに、その眼の色が次第次第に物凄くなり、真夜中のようにギリリギリリと歯を噛鳴らし初め、突然、精神に異状を呈したらしく、そこいらに在る品物を取っては投げ……取っては投げするので、危なくて近寄れない。そのうちにタッタ今のこと、隙《すき》を窺ったロスコー氏は哀れにもポケットからピストルを取出し、自分の頭の顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》上部を射撃して自殺してしまった。今すこし早く精神異状者と認めて処置しなかった事を、院長初め非常に恐縮している……という話であった。
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