らないようにしておいた。だから、これがあの事件の真相だと気付かれるのはドンナに早くとも二三週間の後《のち》だろう。その間に完全な失踪が出来ない位の私なら、捕まっても文句はないだろう。
私のこうした行動が、この場合唯一の自白であり、且つ手がかりである事を私は知り過ぎる位知っている。……にも拘《かか》わらずドウしてコンナ大胆な……むしろ馬鹿な行動を執《と》ったか。
その理由はただ一つ……事件の真相をどこまでも真実の形で認めてもらいたいからだ。南堂伯爵未亡人との約束を果したいからだ。
私は捕まり次第、脅喝殺人の罪に問われるにきまっている。うっかりすると謀殺か強盗の廉《かど》で首を絞められるかも知れない虞《おそ》れが十分にある。そんなにまで恐しい事件にタッタ一人で触れて来たのだ。
私がすべての生命に対して特別に敏感《デリケート》な人間である事を証明し得る者がどこに居よう。
私は現代社会の堕落層に住む寄生虫である。卑怯者と呼ばれても悪党と罵しられてもビクともしないであろう一種の冒険を、特に「金《かね》」というものに対して試み続けて来た人間である。……況《いわ》んや今度という今度ばかりは、思いがけない機会から非常に世間のためになる……被害者自身でさえも感謝しているであろう痛快な仕事を果してやったつもりでいる。六千円位の報酬では足りないと思っている位だ。
私はこれから後《あと》もこの意味で世間へ挑戦してやろうと考えている。この事件を記録した一冊のノートと六千円を資本にして……。
身におぼえのある堕落資本家諸氏よ。警戒するがいい……。
外はモウ明るくなって来たようだ。
ここいらで一服してみよう。
私は今朝《けさ》の零時半キッカリに、南堂伯爵未亡人を、その自宅に訪問した。
むろん、それは尋常一様の訪問ではなかった。手早く言えば脅喝の目的であった。
私は日本屈指の大新聞、東都日報の外交部につとめる傍ら、本郷|西片町《にしかたまち》の小さな活版屋で、家庭週報という四|頁《ページ》新聞を、毎日曜|毎《ごと》に発行していた。その大部分は料理、裁縫、手芸なぞの切抜記事で、上流婦人や女優の消息、芝居、展覧会なぞの報道を申訳《もうしわけ》だけに掲載していたが、本来の目的は一箇月に一度位ずつ、女学校や、上流家庭の内幕を素破抜《すっぱぬ》いて、その新聞の全部を高価《たか》く売り付けるのであった。むろん売付ける新聞紙は別に刷らしていたから、警察に睨まれるようなヘマは一度もしなかった。
ところがこの頃になって、その脅喝が著しく利いて来た。近頃の大新聞が、上流社会の醜聞《スキャンダル》を昔のように書かなくなったせいらしい。しまいには原稿だけ……最近には単に口先でチョット耳を吹いただけで、五百や千の金には有付けるようになった。
資本主義末期の社会層には、不景気に反逆する上流社会の堕落例が夥《おびただ》しいものだ。だから私はチットモ金に困らなかった。そうして金を掴めば掴むほど、そうした堕落層の裏面に深入りして行った。女優を買う女、男優を買う男の名前なぞは、一人残らず知っていた。
南堂伯爵未亡人は、その尤《ゆう》なる者であった。
巨万の財産を死蔵して、珍書画の蒐集に没頭していた故伯爵が四五年前に肺病で死ぬと間もなく未亡人は、旧邸宅の大部分を取毀《とりこわ》して貸家を建てて、元銀行員の差配《さはい》を置いた。自身は僅かに残した庭園の片隅の図書館に、粗末な赤|煉瓦《れんが》の煙突を取付けて住み込んで、通勤の家政婦を一人置いていた。
未亡人の美しさが見る見る年月を逆行し始めたのは、その頃からの事であった。モウ四十に近い姥桜《うばざくら》とは夢にも思えない豊満な、艶麗な姿を、婦人正風会の椅子に据えて、弁舌と文章に万丈の気を吐き始めた。
彼女はスバラシイ機智と魅力の持ち主であった。物質的にも精神的にも決して敵を作らなかった。子供のない残生を公共の仕事に使いつくす覚悟だと云い触らしていた。幼稚園や小学校に行って子供を愛撫するのが何よりの楽しみだとも云った。又、実際、彼女はそんな風に見えた。
彼女の事業に共鳴し、彼女の仕事のために奔走する紳士淑女が彼女の周囲に雲集した。彼女の事業を援助する興行物は必ず大入満員を占めた。
新聞や雑誌は争うて彼女の写真や、言葉や、文章を載せた。彼女の見事な筆跡で書いた半切《はんせつ》や色紙短冊が飛ぶように地方へ売れた。天下は彼女のために魅了されたと云ってもよかった。世間の評判以上の隠れた評判を彼女は保有していた。
その中に私だけがタッタ一人、彼女に眩惑されなかった。或る不思議な動機から、出来るだけ彼女に遠ざかりながら、出来る限り真剣になって彼女の裏面を探りまわっていた。
その不思議な動機というのは南堂家の図書館に新
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