ガクガクと戦《おのの》いているのに気が付いた。画帳を開こうとすると指がわなないて自由にならなかった。話にしか聞いた事のない恐ろしい変態殺人鬼が、現在タッタ今、眼の前に居ることをヤット意識し初めて……その殺人鬼に誘惑されながら、ドウする事も出来なくなっている自分自身を発見して……。
未亡人は、そうした私の傍に突立ったまま嫣然《えんぜん》と見下していた。私の意気地なさを冷笑するかのように……私を圧迫して絶対の服従を命ずるかのように……。
私は、そうした妖気に包まれながら、わななく指で左右の手袋の釦《ボタン》をシッカリとかけ直していたように思う。……何故ともなしに……そうして絹本《けんぽん》を表装した分厚い画帳を恐る恐る繰り拡げていたように思う。
それは歴史画の巨匠、梅沢狂斎が筆を揮《ふる》った殷紂《いんちゅう》、夏桀《かけつ》、暴虐の図集であった。支那風の美人、美少女、美少年が、あらゆる残忍酷烈な刑に処せられて笞打たれ、絞め殺され、焙《あぶ》られ、焼かれ、煮《に》られ、引き裂かれ、又は猛獣の餌食にあたえられて行く凄愴、陰惨を極めた場面の極彩色密画であった。その一枚一枚|毎《ごと》に息苦しくなってゆくような……それでいて次の頁《ページ》を開かずにはいられないような……。
「ホホホ。感心なすって……。妾にそうした趣味を教えてくれたのはこの画帳なんですよ。もっとハッキリ云うと亡くなった主人なのよ。……主人は亡くなりがけに、自分が生きている間じゅう許さなかった女の楽しみをスッカリ妾に許して行ったんです。そんなにまで主人は妾を愛していたんですの……ですから妾は、そんな遊戯の真似を、この室《へや》でするたんびに、主人の霊魂がどこからか見守っていて、微笑していてくれるような気がしてならないのよ」
「……ウ――ム……」と私は唸《うな》った。同時に私の頭の中に高く高く積み重なっていた硝子《ガラス》器の山が一時にガラガラガラッと崩れ落ち始めたような気がした。
「……ね。安心なすったでしょう……ホホホホホこれだけ打ち明けたらモウいいでしょう」
未亡人の声が神様のように高い処から響き落ちて来た。
私はブルブルと身ぶるいをした。
眼をシッカリと閉じた。
画帳の上に突伏した。
それから私がドンナ事をしたか順序を立てて書く事が出来ない。
頭がグラグラするほど酔っていたことを記憶し
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