あやかしの鼓
夢野久作
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)鼓《つづみ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)音丸|久能《くのう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)これをしかけ[#「しかけ」に傍点]て
−−
私は嬉しい。「あやかしの鼓《つづみ》」の由来を書いていい時機が来たから……
「あやかし」という名前はこの鼓の胴が世の常の桜や躑躅《つつじ》と異《ちが》って「綾《あや》になった木目を持つ赤樫《あかがし》」で出来ているところからもじったものらしい。同時にこの名称は能楽でいう「妖怪《アヤカシ》」という意味にも通《かよ》っている。
この鼓はまったく鼓の中の妖怪である。皮も胴もかなり新らしいもののように見えて実は百年ばかり前に出来たものらしいが、これをしかけ[#「しかけ」に傍点]て打ってみると、ほかの鼓の、あのポンポンという明るい音とはまるで違った、陰気な、余韻の無い……ポ……ポ……ポ……という音を立てる。
この音は今日《こんにち》迄の間に私が知っているだけで六、七人の生命を呪った。しかもその中の四人は大正の時代にいた人間であった。皆この鼓の音を聞いたために死を早めたのである。
これは今の世の中では信ぜられぬことであろう。それ等の呪われた人々の中で、最近に問題になった三人の変死の模様を取り調べた人々が、その犯人を私――音丸久弥《おとまるきゅうや》と認めたのは無理もないことである。私はその最後の一人として生き残っているのだから……。
私はお願いする。私が死んだ後《のち》にどなたでもよろしいからこの遺書を世間に発表していただきたい。当世の学問をした人は或《あるい》は笑われるかも知れぬが、しかし……。
楽器というものの音が、どんなに深く人の心を捉えるものであるかということを、本当に理解しておられる人は私の言葉を信じて下さるであろう。
そう思うと私は胸が一パイになる。
今から百年ばかり前のこと京都に音丸|久能《くのう》という人がいた。
この人はもとさる尊とい身分の人の妾腹《しょうふく》の子だという事であるが、生れ付き鼓をいじることが好きで若いうちから皮屋へ行っていろいろな皮をあつらえ、また材木屋から様々の木を漁《あさ》って来て鼓を作るのを楽しみにしていた。そのために親からは疎《うと》んぜられ、世間からは蔑《さげ》すまれたが、本人はすこしも意としなかった。その後さる町家から妻を迎えてからは、とうとうこれを本職のようにして上《うえ》つ方《がた》に出入りをはじめ、自ら鼓の音に因《ちな》んだ音丸という苗字を名宣《なの》るようになった。
久能の出入り先で今大路《いまおおじ》という堂上方《どうじょうがた》の家に綾姫《あやひめ》という小鼓に堪能な美人がいた。この姫君はよほどいたずらな性質《たち》で色々な男に関係したらしく、その時既に隠し子まであったというが、久能は妻子ある身でありながら、いつとなくこの姫君に思いを焦《こ》がすようになった揚句《あげく》、ある時鼓の事に因《よ》せて人知れず云い寄った。
綾姫は久能にも色よい返事をしたのであった。しかしそれとてもほんの一時のなぐさみであったらしく、間もなく同じ堂上方で、これも小鼓の上手ときこえた鶴原卿《つるはらきょう》というのへ嫁《かた》づくこととなった。
これを聞いた久能は何とも云わなかった。そうしてお輿入《こしい》れの時にお道具の中に数えて下さいといって自作の鼓を一個さし上げた。
これが後《のち》の「あやかしの鼓」であった。
鶴原家に不吉なことが起ったのもそれからのことであった。
綾姫は鶴原家に嫁づいて後その鼓を取り出して打って見ると、尋常と違った音色が出たので皆驚いた。それは恐ろしく陰気な、けれども静かな美くしい音であった。
綾姫はその後何と思ったか、一室《ひとま》に閉じこもってこの鼓を夜となく昼となく打っていた。そうして或る朝何の故ともなく自害をして世を早めた。するとそれを苦に病んだものかどうかわからぬが、鶴原卿もその後病気勝ちになって、或る年関東へお使者に行った帰り途《みち》に浜松とかまで来ると血を吐いて落命した。今でいう結核か何かであったろう。その跡目は卿の弟が継いだそうである。
しかしその鼓を作った久能も無事では済まなかった。久能はあとでこの鼓をさし上げたことを心から苦にして、或る時鶴原卿の邸内へ忍び入ってこの鼓を取り返そうとすると、生憎《あいにく》その頃召し抱えられた左近という若侍に見付けられて肩先を斬られた。そのまま久能は鼓を取り得ずに逃げ帰って間もなく息を引き取ったが、その末期《いまわ》にこんなことを云った。
[#ここから1字下げ]
「私は私があの方に見すてられて空虚《うつろ》となった心持ちをあの鼓の音《ね》にあらわしたのだ。だから生き生きとした音を出させようとして作った普通《なみ》の鼓とは音色が違う筈である。私はこれを私の思うた人に打たせて『生きながら死んでいる私』の心持ちを思い遣ってもらおうと思ったのだ。ちっとも怨《うら》んだ心持ちはなかった。その証拠にはあの鼓の胴を見よ。あれは宝の木といわれた綾模様の木目を持つ赤樫の古材で、日本中に私の鑿《のみ》しか受け付けない木だ。その上に外側の蒔絵《まきえ》まで宝づくしにしておいた。あれはお公卿《くげ》様というものが貧乏なものだから、せめてあの方の嫁《ゆ》かれた家《うち》だけでも、お勝手許《かってもと》の御都合がよいようにと祈る心からであった。それがあんなことになろうとは夢にも思い設けなんだ。誰でもよい。私が死に際のお願いにあの鼓を取り返して下さらんか。そうして又と役に立たんように打ち潰して下さらんか。どうぞどうぞ頼みます」
[#ここで字下げ終わり]
これが久能の遺言となったが、誰も鶴原家に鼓を取り返しに行く者なぞなかった。それどころでなく変死であったので、ごく秘密で久能の死骸を葬った。
しかしこの遺言はいつとなく噂となって世間に広まり、果は鶴原家の耳にも入るようになった。鶴原家ではそれからその鼓をソックリ箱に蔵《おさ》めて、土蔵の奥に秘めて虫干しの時にも出さないようにした。それと一緒に誰云うとなく「あやかしの鼓」という名が附いて、その箱の蓋を開いただけでも怪しいことがある……その代りこの鼓を持ち伝えてさえおれば家《うち》の中に金が湧くと言い伝えられた。そのおかげかどうかわからぬが、その後の鶴原家には別に変ったこともなく却《かえ》ってだんだんと勝手向きもよくなって維新後は子爵を授けられたが、大正の初めになると京都を引き上げて東京の東中野に宏大な邸《やしき》を構えた。
これと反対に綾姫の里方の今大路家はあまり仕合せがよくなかった。綾姫が鶴原家に嫁《かた》づいたたあとで、血統《ちすじ》が絶えそうになったが綾姫の隠し子があったのを探し出して表向きを都合よくして、やっと跡目を立てたような始末であった。しかしその後しだいに零落してしまって維新後はどうなったか、わからなくなっているという。
こうして「あやかしの鼓」に関係のある二軒の家が一軒は栄え一軒は落ちぶれている一方に、音丸久能の子の久伯《きゅうはく》と、その子の久意《きゅうい》は久能のあとを継いで鼓いじりを商売にしてどうにか暮らしているにはいた。けれども二人とも久能の遺言を本気に受けて鶴原家からアヤカシの鼓を引き取ろうというようなことはしなかった。
この久能の孫の久意が私の父であった。
私の父は京都にいる時分から鼓の修繕《ていれ》や仲買い見たようなことをやっていた。けれども手職《てしょく》が出来たらしい割りにお客の取り付きがわるく、最初に生れた男の子の久禄《きゅうろく》というのは生涯音信不通で、六ツの年に他家《よそ》へ遣るという有り様であった。これを東京の九段におられる能小鼓の名人で高林弥九郎という人が見かねて東京に呼び寄せ、牛込の筑土《つくど》八幡の近くに小さな家《うち》を借りて住まわせて下すったので父はやっと息を吐《つ》いたという事である。
しかし明治三十六年になって母が私を生み残して死ぬと、どうしたものか父は仕事を怠け初めて貸本ばかり読むようになった。それから大正三年の夏に脊髄病に罹《かか》って大正五年の秋まで足かけ三年の間私に介抱されたあげく肺炎で死んだ。その時が五十五であった。
その死ぬすこし前のことであった。
私が復習《おさらえ》を済ましてから九段の老先生から借りて来た「近世説美少年録」という本を読んできかせようとすると父は、
「ちょっと待て、今日はおれが面白い話をしてきかせる」
と云いながらポツポツと話し出した。それが「アヤカシの鼓」の由来で私にとっては全く初耳の話であった。
……ところで……
と父は白湯《さゆ》を一パイ飲んで話し続けた。
「……実はおれもこの話をあまり本気にしなかった。名高い職人にはよくそんな因縁ばなしがくっついているものだから……東京に来ても鶴原家がどこにあるやら気も付かず、また考えもしなかった。
すると今から三年ばかり前の春のこと、朝早くおれが表を掃いていると二十歳《はたち》ばかりの若い美しいはいからさん[#「はいからさん」に傍点]が来て、この鼓の調子を出してくれと云いながら綺麗な皮と胴を出した。おれは何気なく受け取って見ると驚いた。胴の模様は宝づくしで材木は美事な赤樫だ。話にきいた『あやかしの鼓』に違いないのだ。そのはいからさん[#「はいからさん」に傍点]はその時こんなことを云った。
『私は中野の鶴原家のもので九段の高林先生の処でお稽古を願っているものだが、この鼓がうちにあったから出して打って見たんだけど、どうしても音《ね》が出ない。何でもよっぽどいい鼓だと云い伝えられているのだから、音が出ない筈はないと思うのだけど』
と云うんだ。おれは試しに、
『ヘエ。その云い伝えとはどんなことで……』
と引っかけて見たが奥さんはまだ鶴原家に来て間もないせいか、詳しいことは知らないらしかった。只、
『赤ん坊のような名前だったと思います』
と云ったのでおれはいよいよそれに違いないと思った。おれはその鼓を一先ず預ることにして別嬪《べっぴん》さんをかえした。そのあとですぐに仕かけて打って見ると……おれは顫《ふる》え上った。これは只の鼓じゃない。祖父《じい》さんの久能の遺言は本当であった。鶴原家に祟《たた》るというのも嘘じゃないと思った。
とはいうものの鶴原家がこの鼓を売るわけはないし、どんなに考えてもこっちのものにする工夫が附かなかったので、おれはそのあくる日中野の鶴原家に鼓を持って行って奥さんに会ってこんな嘘を吐《つ》いた。
『この鼓はどうもお役に立ちそうに思えませぬ。第一長い事打たずにお仕舞《しま》いおきになっておりましたので皮が駄目になっております。胴もお見かけはまことに結構に出来ておりますが、材が樫で御座いますからちょっと音《ね》が出かねます。多分これは昔の御縁組みの時のお飾り道具にお用い遊ばしたものと存じますが……その証拠には手擦《カンニュウ》があまり御座いませんので……お模様も宝づくしで御座いますから……』
これは家業の一番|六《むず》かしいところで、こっちの名を捨ててお向う様のおためを思わねばならぬ時のほか、滅多に吐《つ》いてはならぬ嘘なのだ。ところが若い奥さんはサモ満足そうにうなずいたよ。
『妾《わたし》もおおかた、そんな事だろうと思ったヨ。妾の手がわるいのかと思っていたけど、それを聞いて安心しました。じゃ大切《だいじ》にして仕舞っておきましょう』
って云って笑ってね。十円札を一枚、無理に包んでくれたよ。それから間もなく俺は脊髄にかかって仕事が出来なくなったし、その奥さんも別に仕事を持って来なかった。
けれども俺は何となく気になるから、その後九段へ伺うたんびに内弟子の連中から鶴原家の様子を聞き集めて見ると……どうだ……。
鶴原の子爵様というのは元来、お家柄自慢の気の小さい人で、なかなかお嫁さんが定《き
次へ
全9ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング