》まらないために三十まで独身《ひとりみ》でいた位だったそうだが、その前の年の暮にチョットした用事で大阪へ行くと、世間でいう魔がさしたとでもいうのだろう。どこで見初《みそ》めたものか今の奥さんに思い付かれて夢中になったらしく、とうとう子爵家へ引っぱり込んでしまった。するとその奥さんの素性《すじょう》がわからないというので、親類一統から義絶された揚げ句、京都におれなくなって、東京の中野に移転して来たものだった。
ところでそれはまあいいとしてその奥さんは、名前をたしかツル子さんといったっけが……東京へ越して来て鼓のお稽古を初めると間もなく、子爵様の留守の間《ま》に、お附きの女中が青くなって止めるのもきかないで『あやかしの鼓』を出して打って見たものだ。それをあとから子爵様が聞いてヒドク叱ったそうだが、それを気に病んだものか子爵様は間もなく疳が昂ぶり出して座敷牢みたようなものの中へ入れられてしまった。それからツル子夫人は中野の邸を売り払って麻布《あざぶ》の笄町《こうがいちょう》に病室を兼ねた小さな家《うち》を建てて住んだものだが、そうして病人の介抱をしいしい若先生のところへお稽古に来ているうちに子爵様はとうとう糸のように痩せ細って、今年の春亡くなってしまった。
そうすると鶴原の未亡人《ごけさん》は、そのあとへ、自分の甥《おい》とかに当る若い男を連れて来て跡目にしようとしたが、鶴原の親類はみんなこの仕打ちを憤《おこ》ってしまって、お上《かみ》に願って華族の名前を除くといって騒いでいる。おまけに若未亡《わかごけ》のツル子さんについても、よくない噂ばかり……ドッチにしても鶴原家のあとは断絶《たえ》たと同様になってしまった。
おれは誰にも云わないが、これはあの『あやかしの鼓』のせい[#「せい」に傍点]だと思う。そうして、それにつけておれはこの頃から決心をした。お前は俺の子だけあって鼓のいじり方がもうとっくにわかっている。今にきっと打てるようになると思う。
けれども俺はお前に云っておく。お前はこれから後《のち》、忘れても鼓をいじってはいけないぞ。これは俺の御幣担《ごへいかつ》ぎじゃない。鼓をいじると自然いい道具が欲しくなる。そうしておしまいにはキットあの鼓に心を惹かされるようになるから云うんだ。あのアヤカシの鼓は鼓作りの奥儀をあらわしたものだからナ……。
そうなったらお前は運の尽きだ。あの鼓の音をきいて妙な気もちにならないものはないのだから。狂人《きちがい》になるか変人になるかどっちかだ。
お前は勉強をしてほかの商売人か役人かになって東京からずっと離れた処へ行け。鶴原家へ近寄らないようにしろ。
おれはこのごろこの事ばかり気にしていた。いずれ老先生にもよくお願いしておくつもりだが、お前がその気にならなければ何にもならない。
いいか……忘れるな……」
私はお伽噺《とぎばなし》でも聞くような気になってこの話を聞いていた。しかし別段鼓打ちになろうなぞとは思わなかったから、温柔《おとな》しくうなずいてばかりいた。
父は安心したらしかった。
その年の秋に父が死んで九段の老先生の処へ引き取られると、間もなく私は丸々と肥って元気よく富士見町小学校へ通い続けた。「あやかしの鼓」の話なぞは思い出しもしなかった。
老先生は小柄な、日に焼けた、眼の光りの黒いお爺さんであった。年はその時が六十一で還暦のお祝いがその春にある筈であったのが、思いがけなく養子の若先生が家出をされたのでその騒ぎのためにおやめになった。
若先生は名を靖二郎といった。私は会ったことがないが老先生と反対にデップリと肥った気の優しい人で、鼓の音《ね》ジメのよかった事、東京や京阪で催しのある毎《ごと》に一流の芸者がわざわざ聞きに来た位であったという。家出された時が二十歳《はたち》であったが着のみ着のままで遺書《かきおき》なぞもなく、また前後に心当りになるような気配もなかったので探す方では途方に暮れた。一方に気の早い内弟子はもう後釜をねらって暗闘を初めているらしい事なぞをおしゃべりの女中からきいた。
「あなたが大方あと継ぎにおなりになるんでショ」なぞとその女中は云った。
しかし老先生は私に鼓打ちになれなぞとは一口も云われなかった。只|無暗《むやみ》に可愛がって下さるばかりであった。
けれども家《うち》が家《うち》だけに鼓の音《ね》は朝から晩まで引っ切りなしにきこえた。そのポンポンポンポンという音をウンザリする程きかされているうちに私の耳は子供ながら肥えて来た。初めいい音だと思ったのがだんだんつまらなく思われるようになった。内弟子の中で一番上手だという者の鼓の|音〆《ねじめ》はほかの誰のよりもまん丸くて、キレイで、品がよかったがそれでも私は只美しいとしか感じなかった。もうすこし気高い……神様のように静かな……または幽霊の声のように気味のわるい鼓の音はないものか知らん……などと空想した。
私は老先生の鼓が聞きたくてたまらなくなった。
しかし老先生が打たれる時は舞台か出稽古の時ばかりで、うちでは滅多に鼓を持たれなかった。一方に私も学校へ通っていたので、高林家へ来て暫くの間は一度も老先生の鼓をきくことが出来なかった。只一度正月のお稽古初めの時に吉例の何とかいうものを打たれたそうであるが、その時は生憎お客様のお使いをしていたために聞き損ねた。
こうして一夜明けた十六の年の春、高等二年の卒業免状を持って九段に帰ると、私はすぐ裏二階の老先生の処へ持って行ってお眼にかけた。すると向うむきになって朱筆で何か書いておられた老先生はふり返ってニッコリしながら、
「ウム。よしよし」
とおっしゃって茶托に干菓子を山盛りにして下さった。それをポツポツ喰べている私の顔を老先生はニコニコして見ておられたが、やがて床の間の横の袋戸から古ぼけた鼓を一梃出して打ち初められた。
その|ゝゝゝ《チチチ》|○○○《ポポポ》という音をきいた時、私はその気高さに打たれて髪の毛がゾーッとした。何だか優しいお母さんに静かに云い聞かされているような気もちになって胸が一パイになった。
「どうだ鼓を習わないか」
と老先生は真白な義歯《いれば》を見せて笑われた。
「ハイ、教えて下さい」
と私はすぐに答えた。そうしてその日から安っぽい稽古鼓で『三ツ地《じ》』や『続け』の手を習った。
けれども私の鼓の評判はよくなかった。第一調子が出ないし、間《ま》や呼吸なぞもなっていないといって内弟子からいつも叱られた。
「大飯を喰うから頭が半間《はんま》になるんだ。おさんどん見たいに頬《ほっ》ペタばかり赤くしやがって……」
なぞと寄ってたかって笑い物にした。けれども私はちっとも苦にならなかった。――鼓打ちなんぞにならなくてもいい。老先生が死なれるまで介抱をして御恩報じをしたら、あとは坊主になって日本中を旅行してやろう――なぞと思っていたから、なおのこと大飯を喰って元気を養った。
その年が過ぎて翌年の春のおしまいがけになると、若先生はいよいよ亡くなられたことにきまったので、極《ご》く内輪でお菓子とお茶ばかりの御法事が老先生のお室《へや》であった。その席上で老先生の親類らしい胡麻《ごま》塩のおやじ[#「おやじ」に傍点]が、
「早く御養子でもなすっては……」
と云ったら並んでいる内弟子の三、四人が一時に私の方を見た。老先生は苦笑いをされた。
「サア、靖《やす》(若先生)のあとは、ちょっとありませんね。ドングリばかりで……」
とみんなの顔を一渡り見られた。内弟子はみんな真赤になった。
私はこの時急に若先生に会って見たくなった。――きっとどこかに生きておられるに違いない。そうして鼓を打っておられるような気がする。その音《ね》がききたいな――と夢のようなことを考えながら、老先生のうしろにある仏壇のお燈明の間に白く光っている若先生のお位牌を見ていると、不意に、
「その久弥さんはどうです」
と胡麻塩おやじ[#「おやじ」に傍点]が又出しゃばって云ったので私は胸がドキンとした。
「イヤ。これはいわば『鼓の唖《おし》』でね……調子がちっとも出ないたち[#「たち」に傍点]です。生涯鳴らないかも知れません。こんなのは昔から滅多にいないものですがね」と云いながら私の頭を撫でられた。私もとうとう真赤になった。
「その児《こ》はものになりましょうか」
と内弟子の中の兄さん株が云った。吹き出したものもあった。
「物になった時は名人だよ」
と老先生は落ち付いて云われた。みんなポカンとした顔になった。
みんなが裏二階を降りると老先生は私に取っときの洋羮を出して下さった。そうして長い煙管《きせる》で刻煙草《きざみ》を吸いながらこんなことを云われた。
「お前はなぜ鼓の調子を出さないのだえ。いい音《ね》が出せるのに調子紙を貼ったり剥《は》がしたりして音色を消しているが、どうしてお前はあんなことをするのだえ」
私はおめず臆せず答えた。
「僕の好きな鼓がないんです。どの鼓もみんな鳴り過ぎるんです」
「フーン」
と老先生はすこし御機嫌がわるいらしく、白い煙を一服黒い天井の方へ吹き出された。
「じゃどんな音色が好きなんだ」
「どの鼓でもポンポンポンって『ン』の字をいうから嫌なんです。ポンポンの『ン』の字をいわない……ポ……ポ……ポ……という響のない……静かな音を出す鼓が欲しいんです」
「……フーム……おれの鼓はどうだえ」
「好きです僕は……。けれどもポオ……ポオ……ポオ……といいます。その『オ』の字も出ない方がいいと思うんです」
老先生は又天井を向いてプーッと煙を吹きながら、目をショボショボと閉じたり明けたりされた。
「先生」と私はいくらか調子に乗って云った。
「鶴原様のところに名高い鼓があるそうですが、あれを借りてはいけないでしょうか」
「飛んでもない」
と老先生は私の顔を見られた。私はこの時ほど厳重な老先生の顔を見たことがなかった。私はうなだれて黙り込んだ。
「あの鼓を出すとあの家《うち》に不吉なことがあるというじゃないか。たとい嘘にしろ他人の家に災難があるようなことを望むものじゃないぞ。いいか。気に入った鼓がなければ生涯舞台に出ないまでのことだ」
私は生れて初めて老先生にこんなに叱られて真青になった。けれども心から恐れ入ってはいなかった。
「あやかしの鼓」が私のあこがれの的となったのはこの時からであった。
それから間もなく老先生は私を高林家の後嗣《あとつぎ》にきめられて披露をされた。内弟子たちはみんな不承不承に私を若先生と云った。
しかし私は落胆《がっかり》した。――とうとう本物の鼓打ちになるのか。一生涯|下手糞《へたくそ》の御機嫌を取って暮らさなければならないのか。――と思うとソレだけでもウンザリした。――老先生の御恩に背いてはならぬぞ――と、いつも云って聞かせた父の言葉が恨《うら》めしかった。同時に若先生が家出をされた原因もわかったような気がして、若先生に対するなつかしさがたまらなく弥増《いやま》した。しかし若先生に会いたいという望みは「あやかしの鼓」を見たいという望みよりももっと果敢《はか》ない空想であった。
私は相も変らず肥え太りながらポコリポコリという鼓を打った。
こうして大正十一年――私が二十一歳の春が来た。その三月のなかばの或る日の午後、老先生は私を呼び付けて、
「これを鶴原家へ持ってゆけ」と四角い縮緬《ちりめん》の風呂敷包みを渡された。
鶴原家ときくとすぐに例の鼓のことを思い出したので、私は思わず胸を躍らせて老先生の顔を見た。老先生もマジマジと私の顔を見ておられたが、
「誰にも知れないようにするんだよ。家《うち》は笄町の神道本局の筋向うだ。樅《もみ》の木に囲まれた表札も何もない家《うち》だ」と眼をしばたたかれた。
私は鳥打に紺飛白《こんがすり》、小倉袴《こくらばかま》、コール天の足袋、黒の釣鐘マントに朴歯《ほおば》の足駄といういでたちでお菓子らしい包みを平らに抱えながら高林家のカブキ門を出た。
麻布
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