だあとのようにわななき出して思わず胴を取り落した。胴はコロコロと私の膝の上から転がり落ちて、横に坐っている妻木君の膝にコツンとぶつかった。
「アッハッハッハッハッ」
と不意に妻木君が笑い出した。たまらなくコミ上げて来る笑いと一緒に、身体《からだ》をよじって腹を押えて、しまいには畳の上にたおれてノタ打ちまわりながら、ヒステリー患者のように笑いつづけた。
「アッハッハッハッハハハハハ、とうとう一パイ喰いましたね……ヒッヒッホッホッホホハハハハハ。ヒッヒッヒッヒッ……」
私は歯の根も合わぬ位ふるえ出した。恐ろしいのか気味悪いのか、それとも腹立たしいのかわからぬまま、妻木君の黒い眼鏡を見つめて戦《おのの》いていたが、やがてその笑いが静まって来ると私の心持ちもそれにつれて不思議に落ち付いて来た。あとには只頭の毛がザワザワするのを感ずるばかりになった。
妻木君は涙を拭い拭い笑い止んだ。
「ああ可笑《おか》しい。ああ面白かった。アハ……アハ……。御免なさい音丸君……じゃない高林君。僕は君を欺《だま》したんです。本当にこの鼓の伝説を知っておられるかどうか試して見たんです。さっきから僕が家《うち》の中を案内なんかしたりしたものだから、君は本当に僕がこの鼓を知らないものと思ったのです。ここに鼓があろうとは思わなかったんです……アハ……アハ……眠り薬の話なんかみんな嘘ですよ。僕は毎日伯母と二人でこの鼓を打っているのですよ……」
私は開いた口が閉《ふさ》がらなかった。茫然と妻木君の顔を見ていた。
「君は失敬ですけれど正直な立派な方です。そうして本当にこの鼓の事を知って来られたんです……」
「それがどうしたんですか」
と私は急に腹が立ったように感じて云った。こんなに真剣になっているのに笑うなんてあんまりだと思って……。すると妻木君は眼鏡の下から涙を拭き拭き坐り直したが、今度は全く真面目になってあやまった。
「失敬失敬。憤《おこ》らないでくれ給えね。僕は君を馬鹿にしたんじゃないんです。出来るならこの鼓を絶対に見つからないことにして諦らめてもらって、君をこの鼓の呪いから遠ざけようとしたのです。ですから疑わぬ先にと思ってこの鼓をお眼にかけたのです。けれども見事に失敗しました。この胴の木目のことまで御存じとすれば君は、君のお父さんから本当に遺言をきいて来られたに違いありません。君はこの鼓を手に入れて打ち壊してしまいたいと思っているのでしょう」
青天の霹靂《へきれき》……私は全身の血が頭にのぼった。……と思う間もなく冷汗がタラタラと腋《わき》の下を流れると、手足の力が抜けてガックリとうなだれつつ畳の上に手を支《つか》えた。
「今まで隠していたが……」と妻木君は黒い眼鏡を外しながら怪しくかすれた声で云った「僕は七年前に高林家を出た靖二郎……ですよ」
「アッ。若先生……」
「……………」
二人の手はいつの間にかシッカリと握り合っていた。年の割に老《ふ》けた若先生の近眼らしい眼から涙がポロリと落ちた。
「会いとう御座いました……」
と私はその膝に泣き伏した。それと一緒に誰一人肉親のものを持たぬ私の淋しさがヒシヒシと身に迫って来て、いうにいわれぬ悲しさがあとからあとからこみ上げて来た。
若先生も私の背中に両手を置きながら暫く泣いておられるようであったが、やがて切れ切れに云われた。
「よく来た……と云いたいが……僕は……君が……高林家に引き取られたときいた時から……心配していた。もしや……ここへ来はしまいかと……」
私は父の遺言を思い出した。――鼓をいじるとだんだんいい道具が欲しくなる。そうしておしまいにはきっと「あやかしの鼓」に引きつけられるようになる――といった運命の力強さをマザマザと思い知ることが出来た。けれどもそれと同時に若先生と私の膝の前に転がっている「あやかしの鼓」の胴が何でもない木の片《はし》のように思われて来たのは、あとから考えても実に不思議であった。
そのうちに若先生は私をソッと膝から離して改めて私の顔を見られた。
「何もかもすっかりわかったでしょう」
「わかりました。……只一つ……」と私は涙を拭いて云った。
「若先生は……あなたはなぜこの鼓を持って高林家へお帰りにならないのですか」
若先生の眉の間に何ともいえぬ痛々しい色が漂った。
「わかりませんか君は……」
「わかりません」と私は真面目にかしこまった。若先生は細いため息を一つされた。
「それではこの次に君が来られる時自然にわかるようにして上げよう。そうしてこの鼓も正当に君のものになるようにして上げよう」
「エ……僕のものに……」
「ああ。その時に君の手でこの鼓を二度と役に立たないように壊してくれ給え。君の御先祖の遺言通りに……」
「僕の手で……」
「そうだ。僕は精神上肉体上の敗残者なのだ。この鼓の呪いにかかって……痩せ衰えて……壊す力もなくなったのだ」
と云いつつすこし暗くなった外をかえり見て独言《ひとりごと》のように云われた。
「もう来るかも知れぬ、鶴原の後家さんが……」
私はうな垂れて鶴原家の門を出た。
この日のように頭の中を掻きまわされたことは今までになかった。こんな家《うち》が世の中にあろうとは私は夢にも思い付かなかった。何もかも夢の中の出来事のように変梃《へんてこ》なことばかりでありながらその一つ一つが夢以上に気味わるく、恐ろしく、嬉しく、悲しかった。
恩義を棄て、名を棄て、自分の法事のお菓子を喰べられる若先生――それを甥《おい》だと偽って吾が家に封じこめて女中同様にコキ使っているらしい鶴原子爵未亡人……そうしてあの美しい化粧室、あの薄気味のわるい病室、皮革《かわ》の鞭、「あやかしの鼓」――何という謎のような世界であろう。何というトンチンカンな家庭であろう。眼で見ていながら信ずる事が出来ない――。
こんなことを考えて歩いているうちに、私はふと自分の懐中が妙にふくらんでいるのに気が付いた。見れば今しがた玄関で若先生が押し込んだ菓子折の束がのぞいている。私はそれを引き出してどこに棄てようかと考えながら頭を上げた。そのはずみに向うからうつむいて来た婦人にブツカリそうになったので私はハッと立ち止《とど》まった。
向うも立ち止まって顔を上げた。
それは二十四、五位に見える色の白い品のいい婦人であった。髪は大きくハイカラに結っていた。黒紋付きに白襟《しろえり》をかけていたが芝居に出て来る女のように恰好がよかった。手に何か持っていたようであるがその時はわからなかった。
私はその時何の意味もなくお辞儀をしたように思う。その婦人もしとやかにお辞儀をしてすれ違った。その時に淡い芳香が私の顔を撫でて胸の奥までほのめき入った。
私は今一度ふり返って見たくてたまらないのを我慢して真直ぐに歩いたために汗が額にニジミ出た。そうして、やっと笄橋《こうがいばし》の袂《たもと》まで来ると、不意に左手の坂から俥《くるま》が駆け降りて来て私とすれ違った。私はその拍子にチラリとふり向いた。
黒い姿が紫色の風呂敷包みを抱えて鶴原家の前の木橋の上に立っていた。白い顔がこっちを向いていた。
私は逃げるように横町に外《そ》れた。
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この間は失礼しました。
私はあの鼓の魔力にかかって精魂を腐らした結果御覧の通りの無力の人間に成り果てました。しかしその核心には、まだ腐り切っていない或るものが残っていることを君は信じて下さるでしょう。私もそう信じてこの手紙を書きます。
二十六日の午後五時キッカリに鶴原家にお出《いで》が願えましょうか。御都合がわるければそれ以後のいつでもよろしいから、きめて下さい。時間はやはりその頃にお願いしたいのです。
今度お出での時にはあやかしの鼓がきっと君のものになる見込みが附きました。尚その時に君がまだ御存じのない秘密もおわかりになることと思います。それは矢張り音丸家と鶴原家に古くから重大な関係を持っていることで、君にとっては非常に意外な、且《か》つ不可思議な事実であろうことを信じます。
しかし来られる時に誠に失礼ですが御註文申し上げたいことがあります。奇怪に思われるかも知れませんが是非|左様《さよう》願いたいと思います。
二十六日までにまだ十日ばかりありますからその間に君は一切の服装を新調して来て頂きたい。鼓の家元の若先生らしく、そうして出来るだけ立派な外出姿に扮装して来て頂きたい。無論誰にも秘密でです。理由はお出《いで》になればすぐわかります。東洋銀行の小切手金一千円也を封入致しておきます。鶴原未亡人の名前ですが私の貯金の一部です。私の後を継いで下すった御礼の意味とお祝いの意味を兼ねて誠に軽少ですが差し上げます。尚私たちお互いの身の上は今まで通りとして一切を秘密にして下さい。鶴原家に来られてもです。
あやかしの鼓が百年の間に作って来た悪因縁が、君の手で断ち切れるか切れないかは二十六日の晩にきまるのです。同時に七年間一歩もこの家の外に出なかった僕が解放されるか否かも決定するのです。君の救いの手を待ちます。
三月十七日[#地から2字上げ]高林靖二郎
音丸久弥様
[#ここで字下げ終わり]
私はこの手紙を細かく引き裂いて自動車の窓から棄てた。ちょうど芝公園を走り抜けて赤羽橋の袂を右へ曲ったところであった。
眼の前の硝子《ガラス》板に私の姿が映ってユラユラと揺れている。
三越の番頭が見立ててくれた青い色の袷《あわせ》に縫紋《ぬいもん》、白の博多帯、黄色く光る袴《はかま》、紫がかった羽織、白足袋にフェルト草履《ぞうり》、上品な紺羅紗《こんらしゃ》のマントに同じ色の白リボンの中折れという馬鹿馬鹿しくニヤケた服装が、不思議に似合って神妙な遊芸の若先生に見えた。ふだんなら吹き出したかも知れないがこの時はそれどころではなかった。
私はこの数日間のなやみに窶《やつ》れた頬を両手で押えながら、運転手のうしろの硝子板に顔を近寄せて見た。頭を刈って顔を剃ったばかりなのに年が二つ位|老《ふ》けたような気がする。赤かった頬の色もすっかり消え失せているようである。
自動車が鶴原家に着くと若先生……ではない妻木君が、この間の通りの紺飛白《こんがすり》の姿のまま色眼鏡をかけないで出て来て三つ指を突いた。水仕事をしていたらしく真赤になった両手をさし出して、運転手が持って来た私の古着の包みを受け取って横の書生部屋にそっと入れた。それから今一つ塩瀬《しおせ》の菓子折の包みを受け取ると、わざとらしく丁寧に一礼して先に立った。私は詐欺か何かの玉に使われているような気になって磨き上げた廊下をあるいて行った。
奥の座敷は香木の香《か》がみちみちてムッとする程あたたかかった。しかし未亡人は居なかったので私は何やら安心したようにホッとして程よい処に坐った。
室《へや》の様子がまるで違ったように思われたが、あとから考えるとあまり違っていなかった。それは室の真中に吊された電燈の笠の黄色いのが取り除《の》けられて華やかな紫色にかわったせいであろう。真中に鉄色のふっくりした座布団が二つ、金蒔絵をした桐の丸胴の火鉢、床の間には白|孔雀《くじゃく》の掛け物と大きな白|牡丹《ぼたん》の花活《はない》けがしてあって、丸い青銅の電気ストーブが私の背後《うしろ》に真赤になっていた。
しずかに妻木君が這入って来て眼くばせ一つせずにお茶を酌んで出した。私も固くなってお辞儀をした。何だか裁判官の出廷を待つ罪人のような気もちになった。
私は妻木君が出てゆくのを待ちかねて違い棚の上に露出《むきだ》しに並んでいる四ツの鼓を見た。何だかそれが今夜私を死刑にする道具のように見えたからである。――「四ツの鼓は世の中に世の中に。恋という事も。恨《うらみ》ということも」――という謡曲の文句を思い出しながら私は気を押し鎮めた。
うしろの障子《しょうじ》が音もなく開いて鶴原未亡人が這入って来た気はいがした。
私はこの間のように眩惑されまいと努力しながら出来るだけしとやかに席を辷《すべ》った。
「ま……
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