せびらかしてやろうと思っているのです。ですからそれ以来高林へ行かないのです」
「じゃ何故あなたに隠されるのですか」
 と私は矢継早《やつぎばや》に問うた。その熱心な口調にいくらか受け太刀《だち》の気味になった妻木君は苦笑しいしい云った。
「おおかた僕がその鼓を盗みに来たように思っているのでしょう」
「じゃどこに隠してあるかおわかりになりませんか」
 と私の質問はいよいよぶしつけになったので、妻木君の返事は益々受け太刀の気味になった。
「……伯母は毎日出かけますのでその留守中によく探して見ますけれども、どうしても見当らないのです」
「外へ出るたんびに持って出られるのじゃないですか」
「いいえ絶対に……」
「じゃ伯母さんは……奥さんはいつその鼓を打たれるのですか」
 この質問は妻木君をギックリさせたらしく心持ち羞恥《はにか》んだ表情をしたが、やがて口籠《くちごも》りながら弁解をするように云った。
「私は毎晩不眠症にかかっていますので睡眠薬を服《の》んで寝るのです。その睡眠薬は伯母が調合をして飲ませますので私が睡ったのを見届けてから伯母は寝るのです。その時に打つらしいのです」
「ヘエ……途中で眼のさめるようなことはおありになりませんか」
「ええ。ありません……伯母はだんだん薬を増すのですから……けれどもいつかは利かなくなるだろうと、それを楽しみに待っているのです。もう今年で七年になります」
 と云うと妻木君は悄然《しょんぼり》とうなだれた。
「七年……」と口の中で繰り返して私は額に手を当てた、この家中に充ち満ちている不思議さ……怪しさ……気味わるさ……が一時に私に襲いかかって頭の中で風車《かざぐるま》のように回転し初めたからである。この家中のすべてが「あやかしの鼓」に呪われているばかりでなく、私もどうやら呪われかけているような……。
 しかし又この青年の根気の強さも人並ではない。そんな眼に会いながら七年も辛抱するとは何という恐ろしい執念であろう。しかもそうした青年をこれ程までにいじめつけて鼓を吾が物にしようとする鶴原夫人の残忍さ……それを通じてわかる「あやかしの鼓」の魅力……この世の事でないと思うと私は頸すじが粟立つのを感じた。
 私は殆んど最後の勇気を出してきいた。
「じゃ全くわからないのですね」
「わかりません。わかれば持って逃げます」
 と妻木君は冷やかに笑った。私は私の愚問を恥じて又赤面した。
「こっちへお出《いで》なさい。家《うち》の中をお眼にかけましょう。そうすれば伯母がどんな性格の女だかおわかりになりましょう。ことによると違った人の眼で見たら鼓の隠してあるところがわかるかも知れません」
 と云ううちに妻木君は立ち上った。私は鼓のことを殆んど諦めながらも、云い知れぬ好奇心に満たされて室《へや》を出た。

 応接間を出ると左は玄関と、以前人力車を入れたらしいタタキの間《ま》がある。妻木君は右へ曲って私を台所へ連れ込んだ。
 それは電気と瓦斯《ガス》を引いた新式の台所で、手入れの届いた板の間がピカピカ光っている。そこの袋戸棚から竈《かまど》の下とその向う側、洗面所の上下の袋戸、物置の炭俵や漬物桶の間、湯殿と台所との間の壁の厚さ、女中部屋の空っぽの押入れ、天井裏にかけた提灯《ちょうちん》箱なぞいうものを、妻木君は如何にも慣れた手付きで調べて見せたが何一つ怪しいところはなかった。
「女中はいないんですか」と私は問うた。
「ええ……みんな逃げて行きます。伯母が八釜《やかま》しいので……」
「じゃお台所は伯母さんがなさるのですね」
「いいえ。僕です」
「ヘエ。あなたが……」
「僕は鼓よりも料理の方が名人なのですよ。拭き掃除も一切自分でやります。この通りです」
 と妻木君は両手を広げて見せた。成る程今まで気が附かなかったがかなり荒れている。
 ボンヤリとその手を見ている私を引っ立てて妻木君は台所を出た。右手の日本風のお庭に向かって一面に硝子障子《ガラスしょうじ》がはまった廊下へ出て、左側の取っ付きの西洋間の白い扉《ドア》を開くと妻木君は先に立って這入った。私も続いて這入った。
 初めはあまり立派なものばかりなので何の室《へや》だかわからなかったが、やがてそれが広い化粧部屋だということがわかった。うっかりすると辷《すべ》り倒れそうなゴム引きの床の半分は美事な絨毯《じゅうたん》が敷いてある。深緑のカアテンをかけた窓のほかは白い壁にも扉《ドア》の内側にも一面に鏡が仕掛けてあって、室中《へや》のものが涯《は》てしもなく向うまで並び続いているように見える――西洋式の白い浴槽《ゆぶね》、黒い木に黄金色《きん》の金具を打ちつけた美事な化粧台、着物かけ、タオルかけ、歯医者の手術室にあるような硝子《ガラス》戸棚、その中に並んだ様々な化粧道具や薬品らしいもの、室《へや》の隅の電気ストーブ、向うの窓際の大きな長椅子、天井から下った切り子細工の電燈の笠――。
 妻木君はその中に這入って先ず化粧台の下からあらため初めた。しかし私はその時鼓を探すということよりもかなり年増になっている筈の鶴原未亡人が、こんな女優のいそうな室でお化粧をしている気持ちを考えながら眼を丸くしていた。
「この室も不思議なことはないんです」
 と妻木君は私の顔を見い見い微笑して扉《ドア》を閉じた。そうして次に今一つある西洋間の青い扉《ドア》の前を素通りにして一番向うの廊下の端にある日本間の障子に手をかけた。
「この室は……」と私は立ち止まって青い扉《ドア》を指した。
「その室は問題じゃないんです。一面にタタキになって真中に鉄の寝台が一つあるきりです。問題じゃありません」
 と妻木君は何だかイマイマしいような口つきで云った。
「ヘエ……」
 と云いながら私はわれ知らず鍵穴に眼を近づけて内部《なか》をのぞいた。
 青黒く地並になった漆喰《しっくい》の床と白い古びた土壁が向うに見える。あかり窓はずっと左の方に小さいのがあるらしく、その陰気で淋しいことまるで貧乏病院の手術室である。隣の化粧室と比べるととても同じ家の中に並んで在る室とは思えない。
「その室に僕は毎晩寝るのです。監獄みたいでしょう」
 妻木君は冷笑《あざわら》っているらしかったが、その時は私の眼に妙なものが見えた。それは正面の壁にかかっている一本の短かい革製の鞭で、初め私は壁の汚染《しみ》かと思っていたものだった。
「その室で伯父《おじ》は死んだのです。」
 という声がうしろから聞こえると同時に私はゾッとして鍵穴から眼を退《の》けた。同時に妻木君の顔一面に浮んだ青白い笑いを見ると身体《からだ》がシャンと固《こわ》ばるように感じた。むろん今の鞭の事なぞ尋ねる勇気はなかった。
「こっちへお這入りなさい。この室で伯母は鼓を打つらしいのです」
 私はほっと溜め息をして奥の座敷に這入った――この家《うち》にはこれ切りしか室がないのだ――と思いながら……。

 奥の一室《ひとま》の新しい畳を踏むと、私は今まで張り詰めていた気分が見る見る弛《ゆる》んで来るように思った。
 青々とした八畳敷の向うに月見窓がある。外には梅でも植えてありそうに見える。
 その下に脚の細い黒塗りの机があって、草色の座布団と華奢《きゃしゃ》な桐の角火鉢とが行儀よく並んでいる。その左の桐の箪笥《たんす》の上には大小の本箱が二つと、大きな硝子《ガラス》箱入りのお河童《かっぱ》さんの人形が美しい振り袖を着て立っている。
 右手には机に近く茶器を並べた水屋《みずや》と水棚があって、壁から出ている水道の口の下に菜種《なたね》と蓮華草《れんげそう》の束が白糸で結《ゆ》わえて置いてある。その右手は四尺の床の間と四尺の違い棚になっているが床の間には唐美人の絵をかけて前に水晶の香炉を置き、違い棚には画帖らしいものが一冊と鼓の箱が四ツ行儀よく並べてある。その上下の袋戸と左側の二間一面の押し入れに立てられた新しい芭蕉布の襖《ふすま》や、つつましやかな恰好の銀色の引き手や、天井の真中から下っている黒枠に黄絹張りの電燈の笠まで何一つとして上品でないものはない。
 私は思わず今一度溜め息をさせられた。
「これが伯母の居間です」
 といううちに妻木君は左側の押し入れの襖を無造作にあけて、青白い二本の手を突込んで中のものを放り出し初めた……縮緬《ちりめん》の夜具、緞子《どんす》の座布団、麻のシーツ、派手なお召の掻《か》い巻《ま》き、美事な朱総《しゅぶさ》のついた括《くく》り枕《まくら》と塗り枕、墨絵を描いた白地の蚊帳《かや》……。
「ええ……もう結構です……」
 と私は妙に気が退《ひ》けて押し止めた。しかし妻木君はきかなかった。放り出した夜具類を、もとの通りに片付けると今度は隣り側の襖を開いて内部一面に切り組んである衣装棚を引き出し初めた。
「イヤ。わかりました。わかりました。あなたがお調べになったのなら間違いありません」
「そうですか……それじゃ箪笥を……」
「もう……もう本当に結構です」
「じゃ御参考に鼓だけお眼にかけておきましょう」
 と云ううちに右手の違い棚から一つ宛《ずつ》四ツの鼓箱を取り下した。私はそれを受け取って室《へや》の真中に置いた。
 箱から取り出された四ツの仕掛け鼓が私の前に並んだ時私は何となく胸が躍った。この中に「あやかしの鼓」が隠れていそうな気がしたからである。
 この道にすこしでも這入った人は皆知っている通り、鼓の胴と皮とは人間でいえば夫婦のようなもので、元来別々に出来ていて皮には皮の性《しょう》があり胴には胴の性がある。その二つの性が合って始めて一つの音色が出るので、仮令《たとい》どんな名器同志の皮と胴でも、性が合わなければなかなか鳴らない。調子皮を貼って性を合わせたにしても、今までとは全く違った音色が出るので、今ここに四ツの皮と胴とがあるとすれば、鳴る鳴らぬに拘《かか》わらず総計で十六通りの音色が出るわけである。鶴原未亡人はそれを知っていて、ふだん胴と皮とをかけ換えているのではないか……。
 しかしこの考えが浅墓《あさはか》であることは間もなくわかった。妻木君は私と向い合って坐るとすぐに云った。
「私はこの四つの胴と皮とをいろいろにかけ換えてみました。けれどもどれもうまく合いませんでやっぱりもとの通りが一番いい事になります」
「つまりこの通りなんですね」
「そうです」
「みんなよく鳴りますか」
「ええ。みんな伯母が自慢のものです。胴の模様もこの通り春の桜、夏の波、秋の紅葉《もみじ》、冬の雪となっていて、その時候に打つと特別によく鳴るのです。打って御覧なさい」
「伯母さまがお帰りになりはしませんか」
「大丈夫です。今三時ですから。帰るのはいつも五時か六時頃です」
「じゃ御免下さい」と一礼して羽織を脱いだ。妻木君も居住居《いずまい》を直した。
 私は手近の松に雪の模様の鼓から順々に打って行ったが、九段にいる時と違って一パイに出す調子を妻木君は身じろぎもせずに聞いてくれた。
「結構なものばかりですね」
 と御挨拶なしに賞めつつ私は秋の鼓、夏の鼓と打って来て、最後に桜の模様の鼓を取り上げたが、その時何となく胸がドキンとした。ほかの鼓の胴は皆塗りが古いのに、この胴だけは新らしかった。大方この鼓だけ蒔絵《まきえ》の模様が時候と合わないために、春の模様に塗りかえさしたものであろうが、その前の模様はもしや「宝づくし」ではなかったろうか。
 私はまだ打たぬうちに妻木君に問うた。
「この鼓はいつ頃お求めになったのでしょうか」
「サア。よく知りませんが」
「ちょっと胴を拝見してもいいでしょうか」
「エエ。どうぞ」と妻木君は変にカスレた声で云った。
 私は黄色くなりかけている古ぼけた調緒《しらべ》をゆるめて胴を外《はず》して、乳袋《ちぶくろ》の内側を一眼見るとハッと息を詰めた。
 久能張《くのうば》りのサミダレになった鉋目《かんなめ》がまだ新しく見える胴の内側には、蛇の鱗ソックリに綾取った赤樫の木目が目を刺すようにイライラと顕《あら》われていたからである。私の両手は本物の蛇を掴ん
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