ちん坊だよ」と囁《ささや》き合って行った。青褪めて鬚を生やして、塵埃《ちり》まみれの草履《ぞうり》を穿いた吾が姿を見て私は笑うことも出来なかった。
 その日は見なれぬ内弟子が一人高林家の門を出たきり鼓の音一つせずに暗くなりかけて来た。
 私は咳をしいしい四谷まで帰って木賃宿に寝た。そうして夜があけると又高林家の門前へ来て出入りの人を見送ったが老先生らしい姿は見えなかった。鼓の音《ね》もその日は盛んにきこえたけれども老先生の鼓は一つも聞えなかった。
 私はそのあくる日又来た。そのあくる日もその又あくる日も来た。しかし老先生の影も見えない。亡くなられたのか知らんと思うと私の胸は急に暗くなった。
「しかしまだわからない。せめて老先生のうしろ影でも拝んで死なねば……」
 と思うと私の足は夜が明けるとすぐに九段の方に向いた。高林家の門からかなり離れた処にある往来の棄て石が、毎日腰をかけるために何となくなつかしいものに思われるようになった。
「又あの乞食が……」と二人の婦人弟子らしいのが私の方を指しながら高林家の門を這入った。私はその時にうとうとと居ねむりをしていたが、やがて私の肩にそっと手を置い
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