るような声で云いながら、枕元にある銀の水注《みずさ》しの方へ力なく手を伸ばした。私は思わず手を添えて持ち上げてやったが、未亡人の白い指からその銀瓶の把手《ハンドル》に黒い血の影が移ったのを見ると又ハッと手を引込めた。
 未亡人は二口三口ゴクゴクと飲むと手を離した。蒲団から畳に転がり落ちた銀瓶からドッと水が迸《ほとばし》り流れた。
 未亡人はガックリとなった。
「サ……ヨ……ナ……ラ……」
 と消え消えに云ううちに夫人の顔は私の方を向いたまま次第次第に死相をあらわしはじめた。
 兄は唇を噛んでその横顔を睨み詰めた。

 自動車が桜田町へ出ると私は運転手を呼び止めて、「東京駅へ」と云った。何のために東京駅へ行くかわからないまま……。
「九段じゃないのですか」と若い運転手が聴き返した。私は「ウン」とうなずいた。
 私の奇妙な無意味な生活はこの時から始まったのであった。
 東京駅へ着くと私はやはり何の意味もなしに京都行きの切符を買った。何の意味もなしに国府津《こうづ》駅で降りて何の意味もなしに駅前の待合所に這入って、飲めもしない酒を誂《あつら》えて、グイグイと飲むとすぐに床を取ってもらって寝た
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