その兄は浴衣の袖で涙を拭いて淋しく笑った。
「ハハハハハ、あとで思い出して笑っちゃいけないよ久弥……おれははじめて真人間に帰ったんだ。今日はじめて『あやかしの鼓』の呪いから醒めたんだ」
 兄の眼から又新しい涙が湧いた。
「お前はもうじきに自動車が来るからそれに乗って九段へ帰ってくれ。その時にあの押し入れの中にある鞄を持って行くんだよ。あれはこの家《うち》の全財産でお前が今しがた此女《こいつ》から貰ったものだ。あとは引き受ける。決してお前の罪にはしないから。只老先生へだけこの事を話してくれ。そうしておれたちのあとを……弔《とむら》って……」
 兄はドッカとうしろにあぐらをかいた。浴衣の両袖で顔を蔽うてさめざめと泣いた。私はやはり茫然として眼の前に落ちた革の鞭と短刀とを見ていた。
 そのうちに未亡人の身体《からだ》が眼に見えてブルブルと震え始めた。
「ウ――ムムム」
 という低い細い声がきこえると、未亡人が青白い顔を挙げながら私と兄の顔を血走った眼で見まわした。私は何故ともなくジリジリと蒲団から辷り降りた。未亡人の白い唇がワナワナとふるえ始めた。
「す……み……ませ……ん」
 とすきとお
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