。何だか優しいお母さんに静かに云い聞かされているような気もちになって胸が一パイになった。
「どうだ鼓を習わないか」
 と老先生は真白な義歯《いれば》を見せて笑われた。
「ハイ、教えて下さい」
 と私はすぐに答えた。そうしてその日から安っぽい稽古鼓で『三ツ地《じ》』や『続け』の手を習った。
 けれども私の鼓の評判はよくなかった。第一調子が出ないし、間《ま》や呼吸なぞもなっていないといって内弟子からいつも叱られた。
「大飯を喰うから頭が半間《はんま》になるんだ。おさんどん見たいに頬《ほっ》ペタばかり赤くしやがって……」
 なぞと寄ってたかって笑い物にした。けれども私はちっとも苦にならなかった。――鼓打ちなんぞにならなくてもいい。老先生が死なれるまで介抱をして御恩報じをしたら、あとは坊主になって日本中を旅行してやろう――なぞと思っていたから、なおのこと大飯を喰って元気を養った。
 その年が過ぎて翌年の春のおしまいがけになると、若先生はいよいよ亡くなられたことにきまったので、極《ご》く内輪でお菓子とお茶ばかりの御法事が老先生のお室《へや》であった。その席上で老先生の親類らしい胡麻《ごま》塩のお
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