それから静かに云った。
「……この鼓に呪われて……生きた死骸とおんなじになって……しかしそれを深く恥じながら……自分を知っているものに会わないようにどこにか……姿をかくしておられます」
「あなたはどうしてそれがおわかりになりますか」
「……私は若先生にお眼にかかりました……私にこの事だけ云って行かれたのです。そうして……私の後継ぎにはやはり音丸という子供が来ると……」
 私は思わずカッと耳まで赤くなった。若先生にまで見込まれていたのかと思うと空恐ろしくなったので……。
 それと一緒に眼の前に居る妻木という書生さんがまるで違ったえらい人に思われて来た。若先生がそんなことまで打ち明けられる人ならば、よほど芸の出来た人に違いないからである。私はすぐにも頭を下げたい位に思いながら恭《うやうや》しく聞いた。
「それからあなたは……どうなさいましたか」
 妻木君も私と一緒に心持ち赤くなっていたようであったが、それでも前より勢い込んで話し出した。
「私はこの事をきくと腹が立ちました。高《たか》の知れた鼓一梃が人の一生を葬るような音《ね》を立てるなんて怪《け》しからぬ。鼓というものはその人の気持ちによって、いろんな音色を出すもので、鼓の音が人の心を自由にするもんじゃない。どうかしてその鼓を打って見たい。そうしてそのような人を呪うような音色でなく当り前の愉快な調子を打ち出して、若先生の讐《かたき》を取りたいものだと思っている矢先へ伯母が私を呼び寄せたのです。私は得たり賢しで勉強をやめて此家《ここ》に来ました」
「……で……その鼓をお打ちになりましたか」
 と私は胸を躍らしてきいた。しかし妻木君は妙な冷やかな顔をしてニヤニヤ笑った切り返事をしない。私は自烈度《じれった》くなって又問うた。
「その鼓はどんな恰好でしたか」
 妻木君はやはり妙な顔をしていたが、やがて力なく投げ出すように云った。
「僕はまだその鼓を見ないのです」
「エッ……まだ」と私は呆気《あっけ》にとられて云った。
「エエ。伯母が僕に隠してどうしても見せないんです」
「それは何故ですか」と私は失望と憤慨とを一緒にして問うた。妻木君は気の毒そうに説明をした。
「伯母は若先生が打たれた『あやかしの鼓』の音をきいてから、自分でもその音が出したくなったのです。そうして音が出るようになったら、それを持ち出して高林家の婦人弟子仲間に見せびらかしてやろうと思っているのです。ですからそれ以来高林へ行かないのです」
「じゃ何故あなたに隠されるのですか」
 と私は矢継早《やつぎばや》に問うた。その熱心な口調にいくらか受け太刀《だち》の気味になった妻木君は苦笑しいしい云った。
「おおかた僕がその鼓を盗みに来たように思っているのでしょう」
「じゃどこに隠してあるかおわかりになりませんか」
 と私の質問はいよいよぶしつけになったので、妻木君の返事は益々受け太刀の気味になった。
「……伯母は毎日出かけますのでその留守中によく探して見ますけれども、どうしても見当らないのです」
「外へ出るたんびに持って出られるのじゃないですか」
「いいえ絶対に……」
「じゃ伯母さんは……奥さんはいつその鼓を打たれるのですか」
 この質問は妻木君をギックリさせたらしく心持ち羞恥《はにか》んだ表情をしたが、やがて口籠《くちごも》りながら弁解をするように云った。
「私は毎晩不眠症にかかっていますので睡眠薬を服《の》んで寝るのです。その睡眠薬は伯母が調合をして飲ませますので私が睡ったのを見届けてから伯母は寝るのです。その時に打つらしいのです」
「ヘエ……途中で眼のさめるようなことはおありになりませんか」
「ええ。ありません……伯母はだんだん薬を増すのですから……けれどもいつかは利かなくなるだろうと、それを楽しみに待っているのです。もう今年で七年になります」
 と云うと妻木君は悄然《しょんぼり》とうなだれた。
「七年……」と口の中で繰り返して私は額に手を当てた、この家中に充ち満ちている不思議さ……怪しさ……気味わるさ……が一時に私に襲いかかって頭の中で風車《かざぐるま》のように回転し初めたからである。この家中のすべてが「あやかしの鼓」に呪われているばかりでなく、私もどうやら呪われかけているような……。
 しかし又この青年の根気の強さも人並ではない。そんな眼に会いながら七年も辛抱するとは何という恐ろしい執念であろう。しかもそうした青年をこれ程までにいじめつけて鼓を吾が物にしようとする鶴原夫人の残忍さ……それを通じてわかる「あやかしの鼓」の魅力……この世の事でないと思うと私は頸すじが粟立つのを感じた。
 私は殆んど最後の勇気を出してきいた。
「じゃ全くわからないのですね」
「わかりません。わかれば持って逃げます」
 と妻木君は冷やかに笑った。私
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