を畳にすりつけた。
 その様子があまり馬鹿丁寧で大袈裟なので私は又変な気もちになった。鶴原子爵は狂気《きちがい》で死んだというがこの青年も何だか様子が変である。ことによるとやっぱり「あやかしの鼓」に呪われているのじゃないかと思った。
 しかしそう思うと同時に又「あやかしの鼓」が見たくてたまらなくなって来た。しかもそれを見るのには今が一番いい機会じゃないかというような気がしはじめた。
「この人に頼んだらことに依ると『あやかしの鼓』を見せてくれるかも知れない。今がちょうどいいキッカケだ。そうして今よりほかにその時機がないのだ。この家《うち》に又来ることがあるかないかはわからないのだから」
 と考えたが一方に何だか恐ろしく気が咎《とが》めるようにもあるので、心の中で躊躇しいしい妻木君の顔を見ていると、妻木君も黒い眼鏡越しに私の顔をジッと見ている。そうして何の意味もないらしい微笑をフッと唇のふちに浮かべた。私はその笑顔に釣り込まれたようにポツンと口を利いた。
「『あやかしの鼓』というのがこちらにおありになるそうですが……」
 妻木君の笑顔がフッと消えた。私は勇を鼓して又云った。
「すみませんが内密で僕にその鼓を見せて頂けないでしょうか」
「……………」
 妻木君は返事をしないで又も私の顔をシゲシゲと見ていたが、やがて今までよりも一層静かな声で云った。
「およしなさい。つまらないですよあの鼓は……変な云い伝えがあるのでね、鼓の好きな人の中には見たがっている人もあるようですがね……」
「ヘエ」と私は半ば失望しながら云った。こんな書生っぽに何がわかるものかと思いながら……すると妻木君は私をなだめるように、いくらか勿体ぶって云った。
「あんな伝説なんかみんな迷信ですよ。あの鼓の初めの持ち主の名が綾姫といったもんですから謡曲の『綾の鼓』だの能仮面の『あやかしの面』などと一緒にして捏《でっ》ち上げた碌《ろく》でもない伝説なんです。根も葉もないことです」
「そうじゃないように聞いているんですが」
「そうなんです。あの鼓は昔身分のある者のお嫁入りの時に使ったお飾りの道具でね。音《ね》が出ないものですから皆怪しんでいろんなことを……」
 私はここまで聞くと落ち付いて微笑しながら妻木君の言葉を押し止めた。
「ちょっと……そのお話は知っています。それはこちらの奥さんが或る鼓の職人から欺《だま》されていらっしゃるのです。その職人はこの家《うち》のおためを思ってそう云ったのです。本当はとてもいい鼓……」
 と云いも終らぬうちに妻木君の表情が突然物凄いほどかわったのに驚いた。眉が波打ってピリピリと逆立った。口が力なくダラリと開くとまだモナカの潰《つぶ》し餡《あん》のくっ付いている荒れた舌がダラリと見えた。
 私は水を浴びたようにゾッとした。これはいけない。この青年はやっぱり気が変なのだ。それも多分あやかしの鼓に関係した事かららしい。飛んでもないことを云い出した……と思いながらその顔を見詰めていた。
 けれどもそれはほんの一寸《ちょっと》の間《ま》のことであった。妻木君の表情は見る見るもとの通りに冷たく白く落付くと同時に、ふるえた長い溜め息がその鼻から洩れた。それから眼と唇を閉じて腕を拱《く》んでジッと何か考えていたが、やがて眼を開くと同時にハッキリした口調で云った。
「承知しました。お眼にかけましょう」
「エッ見せて下さいますか」と私は思わず釣り込まれて居住居《いずまい》を直した。
「けれども今日は駄目ですよ」
「いつでも結構です」
「その前にお尋ねしたいことがあります」
「ハイ……何でも」
「あなたはもしや音丸という御苗字ではありませんか」
 私はこの時どんな表情《かおつき》をしたか知らない。唯妻木君の顔を穴のあく程見詰めてやっとのことうなずいた。そうして切れ切れに尋ねた。
「……どうして……それを……」
 妻木君は深くうなずいた。悄然《しょうぜん》としていった。
「しかたがありません。私は本当のことを云います。あなたのお家《うち》の若先生から聞きました。私は若先生にお稽古を願ったものですが……」
 私はグッと唾を飲み込んだ。妻木君の言葉の続きを待ちかねた。
「……若先生は伯母《おば》からあの鼓のことを聞かれたのです。あの鼓はほんのお飾りでホントの調子は出ないものだと或る職人が云ったが、本当でしょうかってね。そうすると若先生は……サア……それを打って見なければわからぬが、とにかく見ましょうということになってね……七年前のしかもきょうなんです……この家《うち》へ来られてその鼓を打たれたんです。それからこの家《うち》を出られたのですがそのまんま九段へも帰られないのだそうです」
「若先生は生きておられるのですか」
 と私は畳みかけて問うた。妻木君は黙ってうなずいた。
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