の尽きだ。あの鼓の音をきいて妙な気もちにならないものはないのだから。狂人《きちがい》になるか変人になるかどっちかだ。
 お前は勉強をしてほかの商売人か役人かになって東京からずっと離れた処へ行け。鶴原家へ近寄らないようにしろ。
 おれはこのごろこの事ばかり気にしていた。いずれ老先生にもよくお願いしておくつもりだが、お前がその気にならなければ何にもならない。
 いいか……忘れるな……」

 私はお伽噺《とぎばなし》でも聞くような気になってこの話を聞いていた。しかし別段鼓打ちになろうなぞとは思わなかったから、温柔《おとな》しくうなずいてばかりいた。
 父は安心したらしかった。

 その年の秋に父が死んで九段の老先生の処へ引き取られると、間もなく私は丸々と肥って元気よく富士見町小学校へ通い続けた。「あやかしの鼓」の話なぞは思い出しもしなかった。
 老先生は小柄な、日に焼けた、眼の光りの黒いお爺さんであった。年はその時が六十一で還暦のお祝いがその春にある筈であったのが、思いがけなく養子の若先生が家出をされたのでその騒ぎのためにおやめになった。
 若先生は名を靖二郎といった。私は会ったことがないが老先生と反対にデップリと肥った気の優しい人で、鼓の音《ね》ジメのよかった事、東京や京阪で催しのある毎《ごと》に一流の芸者がわざわざ聞きに来た位であったという。家出された時が二十歳《はたち》であったが着のみ着のままで遺書《かきおき》なぞもなく、また前後に心当りになるような気配もなかったので探す方では途方に暮れた。一方に気の早い内弟子はもう後釜をねらって暗闘を初めているらしい事なぞをおしゃべりの女中からきいた。
「あなたが大方あと継ぎにおなりになるんでショ」なぞとその女中は云った。
 しかし老先生は私に鼓打ちになれなぞとは一口も云われなかった。只|無暗《むやみ》に可愛がって下さるばかりであった。
 けれども家《うち》が家《うち》だけに鼓の音《ね》は朝から晩まで引っ切りなしにきこえた。そのポンポンポンポンという音をウンザリする程きかされているうちに私の耳は子供ながら肥えて来た。初めいい音だと思ったのがだんだんつまらなく思われるようになった。内弟子の中で一番上手だという者の鼓の|音〆《ねじめ》はほかの誰のよりもまん丸くて、キレイで、品がよかったがそれでも私は只美しいとしか感じなかった。もうすこし気高い……神様のように静かな……または幽霊の声のように気味のわるい鼓の音はないものか知らん……などと空想した。
 私は老先生の鼓が聞きたくてたまらなくなった。
 しかし老先生が打たれる時は舞台か出稽古の時ばかりで、うちでは滅多に鼓を持たれなかった。一方に私も学校へ通っていたので、高林家へ来て暫くの間は一度も老先生の鼓をきくことが出来なかった。只一度正月のお稽古初めの時に吉例の何とかいうものを打たれたそうであるが、その時は生憎お客様のお使いをしていたために聞き損ねた。

 こうして一夜明けた十六の年の春、高等二年の卒業免状を持って九段に帰ると、私はすぐ裏二階の老先生の処へ持って行ってお眼にかけた。すると向うむきになって朱筆で何か書いておられた老先生はふり返ってニッコリしながら、
「ウム。よしよし」
 とおっしゃって茶托に干菓子を山盛りにして下さった。それをポツポツ喰べている私の顔を老先生はニコニコして見ておられたが、やがて床の間の横の袋戸から古ぼけた鼓を一梃出して打ち初められた。
 その|ゝゝゝ《チチチ》|○○○《ポポポ》という音をきいた時、私はその気高さに打たれて髪の毛がゾーッとした。何だか優しいお母さんに静かに云い聞かされているような気もちになって胸が一パイになった。
「どうだ鼓を習わないか」
 と老先生は真白な義歯《いれば》を見せて笑われた。
「ハイ、教えて下さい」
 と私はすぐに答えた。そうしてその日から安っぽい稽古鼓で『三ツ地《じ》』や『続け』の手を習った。
 けれども私の鼓の評判はよくなかった。第一調子が出ないし、間《ま》や呼吸なぞもなっていないといって内弟子からいつも叱られた。
「大飯を喰うから頭が半間《はんま》になるんだ。おさんどん見たいに頬《ほっ》ペタばかり赤くしやがって……」
 なぞと寄ってたかって笑い物にした。けれども私はちっとも苦にならなかった。――鼓打ちなんぞにならなくてもいい。老先生が死なれるまで介抱をして御恩報じをしたら、あとは坊主になって日本中を旅行してやろう――なぞと思っていたから、なおのこと大飯を喰って元気を養った。
 その年が過ぎて翌年の春のおしまいがけになると、若先生はいよいよ亡くなられたことにきまったので、極《ご》く内輪でお菓子とお茶ばかりの御法事が老先生のお室《へや》であった。その席上で老先生の親類らしい胡麻《ごま》塩のお
前へ 次へ
全21ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング