だが、この鼓がうちにあったから出して打って見たんだけど、どうしても音《ね》が出ない。何でもよっぽどいい鼓だと云い伝えられているのだから、音が出ない筈はないと思うのだけど』
 と云うんだ。おれは試しに、
『ヘエ。その云い伝えとはどんなことで……』
 と引っかけて見たが奥さんはまだ鶴原家に来て間もないせいか、詳しいことは知らないらしかった。只、
『赤ん坊のような名前だったと思います』
 と云ったのでおれはいよいよそれに違いないと思った。おれはその鼓を一先ず預ることにして別嬪《べっぴん》さんをかえした。そのあとですぐに仕かけて打って見ると……おれは顫《ふる》え上った。これは只の鼓じゃない。祖父《じい》さんの久能の遺言は本当であった。鶴原家に祟《たた》るというのも嘘じゃないと思った。
 とはいうものの鶴原家がこの鼓を売るわけはないし、どんなに考えてもこっちのものにする工夫が附かなかったので、おれはそのあくる日中野の鶴原家に鼓を持って行って奥さんに会ってこんな嘘を吐《つ》いた。
『この鼓はどうもお役に立ちそうに思えませぬ。第一長い事打たずにお仕舞《しま》いおきになっておりましたので皮が駄目になっております。胴もお見かけはまことに結構に出来ておりますが、材が樫で御座いますからちょっと音《ね》が出かねます。多分これは昔の御縁組みの時のお飾り道具にお用い遊ばしたものと存じますが……その証拠には手擦《カンニュウ》があまり御座いませんので……お模様も宝づくしで御座いますから……』
 これは家業の一番|六《むず》かしいところで、こっちの名を捨ててお向う様のおためを思わねばならぬ時のほか、滅多に吐《つ》いてはならぬ嘘なのだ。ところが若い奥さんはサモ満足そうにうなずいたよ。
『妾《わたし》もおおかた、そんな事だろうと思ったヨ。妾の手がわるいのかと思っていたけど、それを聞いて安心しました。じゃ大切《だいじ》にして仕舞っておきましょう』
 って云って笑ってね。十円札を一枚、無理に包んでくれたよ。それから間もなく俺は脊髄にかかって仕事が出来なくなったし、その奥さんも別に仕事を持って来なかった。
 けれども俺は何となく気になるから、その後九段へ伺うたんびに内弟子の連中から鶴原家の様子を聞き集めて見ると……どうだ……。
 鶴原の子爵様というのは元来、お家柄自慢の気の小さい人で、なかなかお嫁さんが定《き》まらないために三十まで独身《ひとりみ》でいた位だったそうだが、その前の年の暮にチョットした用事で大阪へ行くと、世間でいう魔がさしたとでもいうのだろう。どこで見初《みそ》めたものか今の奥さんに思い付かれて夢中になったらしく、とうとう子爵家へ引っぱり込んでしまった。するとその奥さんの素性《すじょう》がわからないというので、親類一統から義絶された揚げ句、京都におれなくなって、東京の中野に移転して来たものだった。
 ところでそれはまあいいとしてその奥さんは、名前をたしかツル子さんといったっけが……東京へ越して来て鼓のお稽古を初めると間もなく、子爵様の留守の間《ま》に、お附きの女中が青くなって止めるのもきかないで『あやかしの鼓』を出して打って見たものだ。それをあとから子爵様が聞いてヒドク叱ったそうだが、それを気に病んだものか子爵様は間もなく疳が昂ぶり出して座敷牢みたようなものの中へ入れられてしまった。それからツル子夫人は中野の邸を売り払って麻布《あざぶ》の笄町《こうがいちょう》に病室を兼ねた小さな家《うち》を建てて住んだものだが、そうして病人の介抱をしいしい若先生のところへお稽古に来ているうちに子爵様はとうとう糸のように痩せ細って、今年の春亡くなってしまった。
 そうすると鶴原の未亡人《ごけさん》は、そのあとへ、自分の甥《おい》とかに当る若い男を連れて来て跡目にしようとしたが、鶴原の親類はみんなこの仕打ちを憤《おこ》ってしまって、お上《かみ》に願って華族の名前を除くといって騒いでいる。おまけに若未亡《わかごけ》のツル子さんについても、よくない噂ばかり……ドッチにしても鶴原家のあとは断絶《たえ》たと同様になってしまった。
 おれは誰にも云わないが、これはあの『あやかしの鼓』のせい[#「せい」に傍点]だと思う。そうして、それにつけておれはこの頃から決心をした。お前は俺の子だけあって鼓のいじり方がもうとっくにわかっている。今にきっと打てるようになると思う。
 けれども俺はお前に云っておく。お前はこれから後《のち》、忘れても鼓をいじってはいけないぞ。これは俺の御幣担《ごへいかつ》ぎじゃない。鼓をいじると自然いい道具が欲しくなる。そうしておしまいにはキットあの鼓に心を惹かされるようになるから云うんだ。あのアヤカシの鼓は鼓作りの奥儀をあらわしたものだからナ……。
 そうなったらお前は運
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