やじ[#「おやじ」に傍点]が、
「早く御養子でもなすっては……」
 と云ったら並んでいる内弟子の三、四人が一時に私の方を見た。老先生は苦笑いをされた。
「サア、靖《やす》(若先生)のあとは、ちょっとありませんね。ドングリばかりで……」
 とみんなの顔を一渡り見られた。内弟子はみんな真赤になった。
 私はこの時急に若先生に会って見たくなった。――きっとどこかに生きておられるに違いない。そうして鼓を打っておられるような気がする。その音《ね》がききたいな――と夢のようなことを考えながら、老先生のうしろにある仏壇のお燈明の間に白く光っている若先生のお位牌を見ていると、不意に、
「その久弥さんはどうです」
 と胡麻塩おやじ[#「おやじ」に傍点]が又出しゃばって云ったので私は胸がドキンとした。
「イヤ。これはいわば『鼓の唖《おし》』でね……調子がちっとも出ないたち[#「たち」に傍点]です。生涯鳴らないかも知れません。こんなのは昔から滅多にいないものですがね」と云いながら私の頭を撫でられた。私もとうとう真赤になった。
「その児《こ》はものになりましょうか」
 と内弟子の中の兄さん株が云った。吹き出したものもあった。
「物になった時は名人だよ」
 と老先生は落ち付いて云われた。みんなポカンとした顔になった。

 みんなが裏二階を降りると老先生は私に取っときの洋羮を出して下さった。そうして長い煙管《きせる》で刻煙草《きざみ》を吸いながらこんなことを云われた。
「お前はなぜ鼓の調子を出さないのだえ。いい音《ね》が出せるのに調子紙を貼ったり剥《は》がしたりして音色を消しているが、どうしてお前はあんなことをするのだえ」
 私はおめず臆せず答えた。
「僕の好きな鼓がないんです。どの鼓もみんな鳴り過ぎるんです」
「フーン」
 と老先生はすこし御機嫌がわるいらしく、白い煙を一服黒い天井の方へ吹き出された。
「じゃどんな音色が好きなんだ」
「どの鼓でもポンポンポンって『ン』の字をいうから嫌なんです。ポンポンの『ン』の字をいわない……ポ……ポ……ポ……という響のない……静かな音を出す鼓が欲しいんです」
「……フーム……おれの鼓はどうだえ」
「好きです僕は……。けれどもポオ……ポオ……ポオ……といいます。その『オ』の字も出ない方がいいと思うんです」
 老先生は又天井を向いてプーッと煙を吹きながら、目をショボショボと閉じたり明けたりされた。
「先生」と私はいくらか調子に乗って云った。
「鶴原様のところに名高い鼓があるそうですが、あれを借りてはいけないでしょうか」
「飛んでもない」
 と老先生は私の顔を見られた。私はこの時ほど厳重な老先生の顔を見たことがなかった。私はうなだれて黙り込んだ。
「あの鼓を出すとあの家《うち》に不吉なことがあるというじゃないか。たとい嘘にしろ他人の家に災難があるようなことを望むものじゃないぞ。いいか。気に入った鼓がなければ生涯舞台に出ないまでのことだ」
 私は生れて初めて老先生にこんなに叱られて真青になった。けれども心から恐れ入ってはいなかった。
「あやかしの鼓」が私のあこがれの的となったのはこの時からであった。

 それから間もなく老先生は私を高林家の後嗣《あとつぎ》にきめられて披露をされた。内弟子たちはみんな不承不承に私を若先生と云った。
 しかし私は落胆《がっかり》した。――とうとう本物の鼓打ちになるのか。一生涯|下手糞《へたくそ》の御機嫌を取って暮らさなければならないのか。――と思うとソレだけでもウンザリした。――老先生の御恩に背いてはならぬぞ――と、いつも云って聞かせた父の言葉が恨《うら》めしかった。同時に若先生が家出をされた原因もわかったような気がして、若先生に対するなつかしさがたまらなく弥増《いやま》した。しかし若先生に会いたいという望みは「あやかしの鼓」を見たいという望みよりももっと果敢《はか》ない空想であった。
 私は相も変らず肥え太りながらポコリポコリという鼓を打った。
 こうして大正十一年――私が二十一歳の春が来た。その三月のなかばの或る日の午後、老先生は私を呼び付けて、
「これを鶴原家へ持ってゆけ」と四角い縮緬《ちりめん》の風呂敷包みを渡された。
 鶴原家ときくとすぐに例の鼓のことを思い出したので、私は思わず胸を躍らせて老先生の顔を見た。老先生もマジマジと私の顔を見ておられたが、
「誰にも知れないようにするんだよ。家《うち》は笄町の神道本局の筋向うだ。樅《もみ》の木に囲まれた表札も何もない家《うち》だ」と眼をしばたたかれた。
 私は鳥打に紺飛白《こんがすり》、小倉袴《こくらばかま》、コール天の足袋、黒の釣鐘マントに朴歯《ほおば》の足駄といういでたちでお菓子らしい包みを平らに抱えながら高林家のカブキ門を出た。
 麻布
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