心ゆくまで戦って戦って、戦い尽して見たいという悲壮な希望に満たされていたからである。
 私は雨戸を締めるために窓の障子を開けた。月の光は霜に映って、まるで白銀の糸を引いたよう。裏の藪で狐《きつね》が鳴いた。

     二十三

 二十歳《はたち》の春は来た。
 停車場《ステーション》もいつの間にか改築される、山の手線の複線工事も大略《あらまし》出来上って、一月の十五日から客車の運転は従来《これまで》の三倍数になった。もうこれまでのようにのんきなことも出来ない、私たちの仕事は非常に忙しくなって来た。
 鉄道国有案が議会を通過して、遠からず日鉄も官営になるという噂は、駅長の辞意をいよいよ固くした。
 私は仕事の忙しくなったことをむしろ歓んで迎えた。前途《ゆくさき》に期待《まちもうけ》のある身に取っては物思う暇のないほど嬉しいことはない、一月も二月も夢のように過ぎて、南郊の春は早く梅も鶯《うぐいす》もともに老いた。
 佳人の噂はとかく絶える間もない、高谷千代子は今年『窮行女学院』を卒業するとすぐ嫁に行くそうだという評判は出札の河合を中心としてこのごろ停車場の問題である。
「女というものは処女《むすめ》のうちだけが花よ、学校にいればまた試験とか何とかいうて相応に苦労がある、マア学校を卒業して二三年親のところにいる間が女としては幸福な時だね、学校を卒業するとすぐお嫁にやるなんて乳母も乳母だ、あんまり気が利かな過ぎるじゃあないか」生意気な河合はちょうど演説でもするように喋《しゃべ》る。
「ヒヤヒヤ、二三年目黒にいて時々停車場へ遊びに来るようだとなおいいだろう」と柳瀬という新しい駅夫が冷かすと、岡田が後へついて「柳瀬なんぞは知るまいがこれには深い原因《わけ》があるのだね、河合君は知っているさ、ねえ君!」
「藤岡なんぞあれで一時大いに欝《ふさ》ぎ込んだからね」と私の方を見て冷笑する、私は思わず顔をあからめた。
 姿なり、いでたちなり、婦人《おんな》というものはなるたけ男の眼を惹《ひ》きつけるように装うてそれでやがて男の力によって生きようとするのだ。男の思いを惹こうとするところに罪がある。それは婦人が男によって生きねばならぬ社会の罪だ。罪は罪を生む。私たちのように汚れた、疲れた、羞かしい青年は空《むな》しく思いを惹かせられたばかりで、そこに嫉妬が起る、そこに誹謗《そしり》が起る、私は世の罪を思うた。

     *    *    *

 三月十八日は高谷千代子の卒業日、私は非番で終日長峰の下宿に寝ているつもりであったけれども、何となく気が欝いでやるせがないので、家を出るとそのまま多摩川の二子《ふたこ》の方に足を向けた。木瓜《ぼけ》の花と菫《すみれ》の花とが櫟林の下に咲き乱れている。その疎《まば》らな木立越しに麦の畑が遠く続いて、菜の花の上に黒ずんだ杉の林のあらわれたところなど、景色も道も単調ではないけれど、静かな武蔵野の春にわれ知らず三里の道を行き尽して、多摩川の谷の一目に見渡される、稲荷坂《いなりさか》に出た。
 稲荷坂というのは、旧《もと》布哇《はわい》公使の別荘の横手にあって、坂の中ほどに小さい稲荷の祠《ほこら》がある。社頭から坂の両側に続いて桜が今を盛りと咲き乱れている。たまさかの休暇を私は春の錦という都に背《そむ》いて思わぬところで花を見た。祠の縁に腰をかけて、私はここで「通俗巴里一揆物語」の読みかけを出して見たが、何となく気が散って一|頁《ページ》も読むことが出来なかった。私は静かに坂を下りて、岸に沿うた蛇籠《じゃかご》の上に腰かけて静かに佳人の運命を想い、水の流れをながめた。
 この一個月ばかり千代子はなぜあんなに欝いでいるだろう、汽車を待つ間の椅子《ベンチ》にも項垂《うなだ》れて深き想いに沈んでいる。千代子の苦悩は年ごろの処女が嫁入り前に悲しむという、その深き憂愁《うれい》であろうか。
 群を離れた河千鳥が汀《みぎわ》に近く降り立った。その鳴き渡る声が、春深い霞《かすみ》に迷うて真昼の寂しさが身に沁みるようである。

     二十四

 四月一日私はいよいよ小林浩平に伴われて門司へ立つのだ。三月十五日限り私は停車場《ステーション》をやめて、いろいろ旅の仕度に忙わしい。たとえば浮世絵の巻物を披《ひろ》げて見たように淡暗い硝子の窓に毎日毎日映って来た社会のあらゆる階級のさまざまな人たち、別離《わかれ》と思えば恋も怨みも皆夢で、残るのはただなつかしい想念ばかりである。森も岡も牧場も水車小屋も、辛い追懐《おもい》の種ばかり、見るに苦しい景色ではあるけれど、これも別離と言えばまた新しい執着を覚える。
 旅の支度も大かた済んだ。別離の心やみがたく私は三月二十八日の午後、権之助坂を下りてそれとはなしに大鳥神社の側の千代子の家の垣に沿うて、橋和屋という料理屋の傍から大崎の田圃《たんぼ》に出た。
 蓮華《げんげ》、鷺草《さぎそう》、きんぽうげ、鍬形草《くわがたそう》、暮春の花はちょうど絵具箱を投げ出したように、曲りくねった野路を飾って、久しい紀念《おもいで》の夕日が岡は、遠く出島のように、メリヤス会社のところに尽きている。目黒川はその崎を繞《めぐ》って品川に落ちる、その水の淀《よど》んだところを亀の子島という。
 大崎停車場は軌道の枕木を黒く焼いて拵えた粗《あら》っぽい柵《さく》で囲まれている。その柵の根には目覚むるような苜蓿《クロバー》の葉が青々と茂って、白い花が浮刻《うきぼり》のように咲いている。私はいつかこの苜蓿の上に横たわって沈欝な灰色の空を見た。品川発電所の煤煙が黒蛇のように渦まきながら、亀の子島の松をかすめて遠い空に消えて行く、私はその煙の末をつくづくと眺めやって、私の来し方のさながら煙のようなことを思うた。
 遠くけたたましい車輪の音がするので振り返って見ると、目黒の方から幌《ほろ》をかけた人力車が十台ばかり、勢いよく駆けて来る。雨雲の低く垂れた野中の道に白い砂塵が舞い揚って、青い麦の畑の上に消える。車は見る見る近づいて、やがて私の寝ている苜蓿の原の踏切を越えた。何の気もなく見ると、中央《まんなか》の華奢《きゃしゃ》な車に盛装した高谷千代子がいる。地が雪のようなのに、化装《よそおい》を凝《こ》らしたので顔の輪廓が分らない、ちょいと私の方を見たと思うとすぐ顔をそむけてしもうた。
 佳人の嫁婚!
 油のような春雨がしとしとと降り出した。ちょうど一行の車が御殿山の森にかくれたころのことである。
 翌日私の下宿に配達して行った新聞の「花嫁花婿」という欄に、工学士|蘆《ろ》鉦次郎《しょうじろう》の写真と、高谷千代子の写真とが掲載されて、六号活字の説明にこんなことが書いてあった。
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工学士蘆鉦次郎氏(三十五)は望月貞子の媒酌《ばいしゃく》にて窮行女学院今年の卒業生中才色兼備の噂高き高谷千代子(十九)と昨日品川の自宅にて結婚の式を挙げられたり。なお同氏は新たに長崎水谷造船所の技師長に聘《へい》せられ来たる四月一日新婚旅行を兼ね一時郷里熊本に帰省せらるる由なり。
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 蘆鉦次郎――高谷千代子――水谷造船所――四月一日、私はしばらく新聞を見つめたまま身動きも出来なかったが、私の身辺に何か目に見えない恐ろしい運命の糸が纏いついているような気がして、われ知らず手を伸べて頭の髪を物狂わしきまでに掻きむしると、その手で新聞をビリビリと引き裂いてしまった。

     二十五

 品川の海はいま深い夜の靄《もや》に包まれて、愛宕山《あたごやま》に傾きかけたかすかな月の光が、さながら夢のように水の面を照している。水脈《みお》を警《いまし》める赤いランターンは朦朧《ぼんやり》とあたりの靄に映って、また油のような水に落ちている。
 四月一日午後十一時十二分品川発下の関直行の列車に乗るために小林浩平と私は品川停車場のプラットホームに、新橋から来る列車を待ちうけている。小林は午後三時新橋発の急行にしようと言うたのを、私は少し気がかりのことがあったので、強いてこの列車にしてもろうた。
「もう十五分だ」と小林はポケットから時計を出して、角燈《ランプ》の光に透かして見たが、橋を渡る音がしてやがてプラットホームに一隊の男女が降りて来た。
 私たちの休んでいる待合の中央の入口から洋服の紳士が、靴音高く入って来た。えならぬ物の馨《かおり》がして、花やかな裾《すそ》が灯影《ほかげ》にゆらいだと思うとその背後から高谷千代子が現われた。
 言うまでもなく男は蘆鉦次郎だ。
 見送りの者は室の外に立っている、男は角燈の光に私たちの顔を透かして突き立ったが、やがて思い出したと見えて、身軽に振り向くとフイとプラットホームに出てしまった。
 はたして彼は私たちを覚えていた。
 取りのこされた千代子は、ややうろたえたがちょいと瞳を私にうつすと、そのまま蘆の後を追ってこれもプラットホームに出る。佳人の素振りはかかる時にも、さすがに巧みなものであった。
「見たか?」と小林はニッコリ笑って私の顔をのぞいたが「睨《にら》んでやったぞ※[#感嘆符三つ、471−上−19]」と言う。私はさすがに見苦しい敗卒であった。よもや蘆がこの列車に乗ろうとは思わなかった、この夜陰に何という新婚の旅行だろう、私はあらゆる妄念の執着を断ち切って、新しい将来のために、花々しい戦闘の途に上る、その初陣《ういじん》の門出にまでも、怪しい運命の糸につき纏われて、恨み散り行く花の精の抜け出したような、あの女《ひと》の姿を、今ここで見るというのは何たることであろう。
 潮が満ちたのであろう、緩《ゆる》く石垣に打ち寄せる水の音、恐ろしい獣が深傷《ふかで》にうめくような低い工場の汽笛の声、さては電車の遠く去り近く来たる轟《とどろ》きが、私の耳には今さながら夢のように聞えて、今見た千代子の姿が何となく幻影のように思いなされた。
「おい、汽車が来たようだよ」という小林の声に私は急いで手荷物を纏めてプラットホームに出た。
 いつの間に来たのか乗客はかなりにプラットホームに群れている。蘆の姿も千代子の姿もさらに見えない、三等室に入って窓の際に小林と相対《あいむか》って座《すわ》った。一時騒々しかったプラットホームもやがて寂寞《ひっそり》として、駅夫の靴の音のみ高く窓の外に響く、車掌は発車を命じた。
 汽笛が鳴る……
 煙の喘ぐ音、蒸汽の漏れる声、列車は徐々として進行をはじめた。私はフト車窓から首を出して見た。前の二等室から、夜目にも鮮やかな千代子の顔が見えて、たしかに私の視線と会うたと思うと、フト消えてしまった。
 急いで窓を閉めて座に就くと、小林は旅行鞄の中から二個《ふたつ》の小冊子を出して、その一部を黙って私に渡した。スカレット色の燃えるような表紙に黒い「総同盟罷工《ゼネラルストライキ》」という文字が鮮やかに読まれた。小林の知己《しりびと》でこのごろ政府からひどく睨まれている有名な某文学者の手になった翻訳である。一時京橋のある書肆《しょし》から発行されるという評判があって、そのまま立消えになったのが、どうしたのか今配布用の小冊子になって小林の手にある。巻末には発行所も印刷所も書いてない。
 汽車は今|追懐《おもいで》の深い蛇窪村の踏切を走っている。



底本:「日本の文学 77 名作集(一)」中央公論社
   1970(昭和45)年7月5日初版発行
   1971(昭和46)年4月30日再版発行
初出:「新小説」
   1907(明治40)年12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:土屋隆
2007年2月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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