寄せる水の音、恐ろしい獣が深傷《ふかで》にうめくような低い工場の汽笛の声、さては電車の遠く去り近く来たる轟《とどろ》きが、私の耳には今さながら夢のように聞えて、今見た千代子の姿が何となく幻影のように思いなされた。
「おい、汽車が来たようだよ」という小林の声に私は急いで手荷物を纏めてプラットホームに出た。
 いつの間に来たのか乗客はかなりにプラットホームに群れている。蘆の姿も千代子の姿もさらに見えない、三等室に入って窓の際に小林と相対《あいむか》って座《すわ》った。一時騒々しかったプラットホームもやがて寂寞《ひっそり》として、駅夫の靴の音のみ高く窓の外に響く、車掌は発車を命じた。
 汽笛が鳴る……
 煙の喘ぐ音、蒸汽の漏れる声、列車は徐々として進行をはじめた。私はフト車窓から首を出して見た。前の二等室から、夜目にも鮮やかな千代子の顔が見えて、たしかに私の視線と会うたと思うと、フト消えてしまった。
 急いで窓を閉めて座に就くと、小林は旅行鞄の中から二個《ふたつ》の小冊子を出して、その一部を黙って私に渡した。スカレット色の燃えるような表紙に黒い「総同盟罷工《ゼネラルストライキ》」という文字が
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