が第一だ」
「はい……」と小さい声で応《こた》えたが、私は何とも知れぬ悲しさと嬉しさとが胸一ぱいになって、熱い涙がハラハラ頬を流れる。努めて一口|応答《こたえ》をしようと思うけれど、張りさけるような心臓の激動と、とめどなく流れる涙とに私はただ啜《すす》り上げるばかりであった。
「小林はあれで立派な学者だ、この間の話では複線工事の監督にここへ来るということだから、君も気をつけて近附きになっておいたら何かと都合がよかろう」
私の胸には暁の光を見るように、新しい勇気と、新しい希望とが湧いた。
十六
社宅を辞して戸外《そと》に出ると夜は更《ふ》けて月の光は真昼のようである。私は長峰の下宿に帰らず、そのまま夢のような大地を踏んで石壇道の雨に洗われて険しい行人坂を下りた。
故郷の母のこと、下谷の伯母のこと、それから三崎町の「苦学社」で嘗《な》めた苦痛《くるしみ》と恐怖《おそれ》とを想い浮べて連想は果てしもなく、功名の夢の破滅《やぶれ》に驚きながらいつしか私は高谷千代子に対する愚かなる恋を思うた。私がこれまで私の恋を思うたびに、冷たい私の知恵は私の耳に囁《ささ》やいて、恋ではない
前へ
次へ
全80ページ中45ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
白柳 秀湖 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング