底には、どれほどの苦痛や悲哀があるのか知れたものではない」窪《くぼ》んだ眼は今にも火を見るかと思われるばかり輝いて、彼の前にはもう何者もない、彼はもう去年プラットホームで私のために工学士を突き飛ばした工夫頭ではなくて、立派な一かどの学者だ、感にうたれ項《うなじ》を垂れて聴きとれている私の姿が、彼にとっては百千の聴衆とも見えるようである。
「時の力というものは恐ろしいものだ。大宮一件以来もう十五年になる、僕たちが非常な苦痛を嘗《な》めて蒔《ま》いた種がこのごろようやく芽を出しかけた。北海道にも、足尾にも、別子にも、長崎にも僕たちの思想《おもい》は煙のように忍び込んで、労働者も非常な勢いで覚醒《めざ》めて来た」
 それから彼が、その火のような弁を続けて今にも暴風雨《あらし》の来そうな世の状態を語った時には、私の若い燃えるような血潮は、脈管に溢《あふ》れ渡って、何とも知れず涙の頬に流れるのを覚えなかったが、私の肩にソッと手を掛けて、
「惜しいもんだ。学問でもさせたらさぞ立派なものになるだろう……けれども行先の遠い身《からだ》だ、その強い感情をやがて、世の下層に沈んで野獣のようにすさんで行く同輩のために注いでくれ給え、社会のことはすべて根気だ、僕は一生工夫や土方を相手にして溝の埋草になってしまっても、君たちのような青年《わかもの》があって、蒔いた種の収穫《とりいれ》をしてくれるかと思えば安心して火の中にでも飛び込むよ」
 激しい男性の涙がとめどなく流れて、私は面をあげて見ることが出来なかった。談話《はなし》は尽きて小林監督は黙って五分心の洋燈《ランプ》を見つめていたが人気の少い寂寥《ひっそり》とした室の夜気に、油を揚げるかすかな音が秋のあわれをこめて、冷めたい壁には朦朧《ぼんやり》と墨絵の影が映っている。
「君はもう知っているか、足立が辞職するということを」こんどは調子を変えて静かに落ち着いて言う。
「エ! 駅長さんはもうやめるのですか!」と私は寝耳に水の驚きを覚えた。「いつ止めるのでしょう、どうして……」と私の声がとぎれとぎれになる。
「この間遊びに行くとその話が出た、もっとも以前からその心はあったんだけれど、細君が引き止めていたのさ」
「駅長さんが止めてしまっちゃあ……」と私は思わず口に出したが、この人の手前何となく気がとがめて口を噤《つぐ》んだ。
「その話もあった。駅長がいろいろ君の身の上話もして、助役との関係も蔭ながら聞いた。もし君さえよければ足立の去ったあとは僕が及ばずながら世話をして上げよう」
 その夜私はどこまでも小林に一身を任せたいこと、幸いに一人前の人間ともなった暁には、及ばずながら身を粉に砕いてもその事業のために尽したいということなどを、廻らぬ重い口で固く盟《ちか》って宿を辞した。
 長峰の下宿に帰ってから灯《あかり》を消して床に入ったが虫の声が耳について眠られない、私は暗のうちに眼ざめて、つくづく足立夫婦の親切を思い、行く先の運命をさまざまに想いめぐらして、二時の時計を聴いた。

     二十一

 少からず私の心を痛めた、足立駅長の辞職問題は、かの営業所長の切なる忠告で、来年の七月まで思いとまるということになって私はホッと一息した。
 物思う身に秋は早くも暮れて、櫟林《くぬぎばやし》に木枯しの寂しい冬は来た。昨日まで苦しい暑さを想いやった土方の仕事は、もはや霜柱の冷たさをいたむ時となった。山の手線の複線工事も大略《あらまし》済んで、案の通り長峰の掘割が後に残った。このごろは日増しに土方の数を加えて、短い冬の日脚《ひあし》を、夕方から篝火《かがりび》を焚いて忙しそうに工事を急いでいる。灯の影に閃《ひらめ》く得物の光、暗にうごめく黒い人影、罵《ののし》り騒ぐ濁声《だみごえ》、十字鍬や、スクープや、ショーブルの乱れたところは、まるで戦争《いくさ》の後をまのあたり観るようである。
 大崎村の方から工事を進めて来た土方の一隊は長峰の旧《もと》の隧道《トンネル》に平行して、さらに一個《ひとつ》の隧道を穿《うが》とうとしている。ちょうどその隧道が半分ほど穿たれたころのことであった。一夜霜が雪のように置き渡して、大地はさながら鉱石《あらがね》を踏むように冱《い》てた朝、例の土方がてんでに異様ないでたちをして、零点以下の空気に白い呼気《いき》を吹きながら、隧道の上のいつものところで焚火をしようと思ってやって来て見ると、土は一丈も堕《お》ち窪《くぼ》んで、掘りかけた隧道は物の見事に破壊《くず》れている。
「ヤア、大変だぞ※[#感嘆符二つ、1−8−75] こりゃあ危ない※[#感嘆符二つ、1−8−75]」と叫ぶものもあれば「人殺しい、ヤア大変だ」と騒ぎ立てる者もある。
「夜でマアよかった、工事最中にこんなことがあろうものなら、それこ
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