うたれる。恵比須停車場の新設地まで泥土を運搬して行った土工列車が、本線に沿うてわずかに敷設された仮設|軌道《レール》の上を徐行して来る。見ると渋を塗ったような頑丈な肌を、烈しい八月の日にさらして、赤裸体《あかはだか》のもの、襯衣《シャツ》一枚のもの、赤い褌《ふんどし》をしめたもの、鉢巻をしたもの、二三十人がてんでに得物《えもの》を提げてどこということなしに乗り込んでいる。汽鑵の正面へ大の字にまたがっているのがあるかと思えば、踏台へ片足かけて、体躯《からだ》を斜めに宙に浮かせているのもある。何かしきりに罵《ののし》り騒ぎながら、野獣のような眼をひからせている形相は所詮《しょせん》人間とは思われない。
 よほどのガラクタ汽鑵と見えて、空箱の運搬にも、馬力を苦しそうに喘《あえ》がせて、泥煙をすさまじく突き揚げている、土工列車がプラットホーム近くで進行を止めた時、渋谷の方から客車が来た。掘割工事のところに入ると徐行して、今土工列車の傍を通る。土方は言い合わせたように客車の中をのぞき込んだが何か眼についたものと見えて、
「ハイカラ! ここまで来い」
「締めてしまうぞ……脂が乗ってやあがら」
「女学生! ハイカラ! 生かしちゃあおかねいぞ」
 私は恐ろしい肉の叫喚《さけび》をまのあたり聴いた。見ると三等室の戸《ドアー》が開いて、高谷千代子が悠々《ゆうゆう》とプラットホームに降りた。華奢《きゃしゃ》な洋傘《こうもり》をパッと拡《ひろ》げて、別に紅い顔をするのでもなく薄い唇の固く結ぼれた口もとに、泣くような笑うような一種冷やかな表情を浮べて階壇を登って行ってしもうた、土方はもう顧《みかえ》る者もない、いつの間にかセッセと働いている。
 私はなぜに同じ労働者でありながら、あの土方のようにさっぱりとして働けないのであろう。
 土方が額に玉のような汗を流して、腕の力で自然に勝って、あらゆるものを破壊して行く間に、私たちは、シグナルやポイントの番をして、機械に生血を吸い取られて行くのだ。私たちのこの痩《や》せ衰えた亡者のような体躯《からだ》に比べて、私はあの逞《たくま》しい土方の体躯が羨ましい、そして一口でもいいからあの美しい千代子の前に立って、あんな暴言が吐いて見たい。
 私は片山先生と小林監督との感化で冬の氷に鎖《とざ》されたような冷たい夢から醒めて、人を羨み身を羞じるというような、気遅れがちの卑しい根性をだんだんに捨てて行くことが出来た。
 新しい希望に満たされて、私は新しい秋を迎えた。

     二十

「今日の社会は大かた今僕が話したような状態《ありさま》で、ちょうどまた新しい昔の大名《だいみょう》が出来たようなものだ。昔の大名は領土を持っていて、百姓から自分勝手に取立てをして、立派な城廓《しろ》を築いたり、また大勢の臣下《けらい》を抱えたりしていた。今話した富豪《かねもち》という奴がやっぱり昔の大名と同じで、領土の代りに資本を持っている大仕掛けの機械を持っている。資本と機械とがあればもうわれわれ労働者の生血を絞り取ることは容易いものだ。昔の祖先《じいさん》たちが土下座をして大名の行列を拝んでいるところへ行って、今から後にはお大名だとか将軍様だとかいうものがなくなって、皆同等の人間として取り扱われる時が来るというて見たところで、それを信ずるものは一人もなかったに違いない。けれども時が来れば大名もなくなる、将軍もなくなる。今僕がここで君に話したようなことを、同輩《なかま》に聞かして見たところで仕方がない。
 いや、僕にしてからがこれからの社会はどんなであろうとか、いつそんな社会になるであろうというようなことを深く考えるのは大嫌いだ、またそんな暇もないのだが、少くも現在自分たちは朝から晩までこんな苦しい労働をしてもなぜ浮ぶ瀬がないのか、なぜこんな世知辛《せちがら》い社会になったのか、また自分たちと社会とはどういう関係になっているのかということぐらいは皆が知っていてくれなくちゃあ困る、僕が先刻《さっき》話したようなことをだね」
 小林監督は私を非常に愛してくれる。今日も宵から親切に話し続けて今の社会の成立をほとんど一時間にわたって熱心に説明してくれた。「先年大宮で同盟罷工《ストライキ》があってから、一時社会では非常にあの問題が喧《やかま》しかったが、労働者はそう世間で言うように煽動《おだて》て見たところで容易く動くものじゃあない、世間の学者なんという奴らが、同盟罷工と言えばまるでお祭騒ぎでもしているように花々しいことに思うのが第一気に喰わねい、よしんば煽動《おだて》たにしろ、また教唆《そそのか》したにしろ、君も知っての通りあの無教育な連中が一個月なり二個月なり饑※[#「飮のへん+曷」、第4水準2−92−63]《うえ》を忍んで団結するという事実の
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