というような男々《おお》しい考えも湧いて来た。
 大槻が転居するという噂は、私にとって全然《まるきり》、他事《よそごと》のようには思われなかった、私はそれとなく駅長の細君に、聞いて見たが噂は全く事実であった。肌寒い春の夕がた私は停車場《ステーション》の柱によって千代子の悲愁を想いやった。思いなしかこのごろその女《ひと》の顔がどうやら憔《やつ》れたようにも見える。
 大槻の家族が巣鴨《すがも》に転居してから、一週間ばかり、金曜の午後私が改札口にいると大槻芳雄が来て小形の名刺を私に渡して小声で囁いた。
「高谷さんにこれを渡してくれないか」率直に言えば私は大槻が嫌いだ、大槻が嫌いなのは私の嫉妬ではないと思う。けれども私が今これを拒むのは何となく嫉妬のように見えてそれは卑怯だという声が心の底で私を責める、私は黙って諾《うなず》いた。
「ありがとう!」といかにも嬉しそうに言うたが、「君だからこんなことを頼むのよ、いいねきっと渡してくれ給え!」と念を押すようにして、ニッコリ笑うた、何という美しい青年であろう、心憎いというのはこういう姿であろう。
 どうしたものかその日千代子の学校の帰りは晩《おそ》かった。どこでどうして私はこれを千代子に渡そうかと思ったが、胸は何となく安からぬ思いに悩んだ、長い春の日も暮れて火ともしごろ、なまめかしい廂髪《ひさしがみ》に美人草の釵《かざし》をさした千代子の姿がプラットホームに現われた。私は千代子の背後《うしろ》について階壇を昇ったが、ほかに客はほとんどない。
「高谷さん!」私はあたりをはばかりながら呼びかけた。思いなしか千代子は小走りに急ぐ、「高谷さん!」と呼ぶと、こんどは中壇に立ち止って私の方を向いたが、怪訝《けげん》な顔をして口もとを手巾《ハンケチ》でおおいながら、鮮やかな眉根をちょいと顰《ひそ》めている。
「何ですか大槻さんがこれをあなたに上げて下さいって……」と私は名刺を差し出した。
「ああそう」と虫の呼気《いき》のように応えたが、サモきまりが悪そうに受け取って、淡暗《うすぐら》い洋燈《ランプ》の光ですかして見たが、「どうもありがとう」と迷惑そうに会釈する。私はこの千代子の冷胆な態度に、ちょうど、長い夢から醒めた人のようにしばらくはぼんやりとして立ち尽した。
 辛い人の世の生存《ながらえ》に敗れたものは、鳩《はと》のような処女の、繊弱《かよわ》い足の下にさえも蹂み躙られなければならないのか。
 翌日、千代子は化粧《よそおい》を凝らして停車場に来た。その夕、大槻は千代子を送ってプラットホームに降りたが、上野行きの終列車で帰った。土曜、日曜の夕、その後私は幾たびも大槻が千代子を送って目黒に来るのを見た。二人がひそひそと語らいながら、私の顔を見ては何事か笑い興ずるような時など、私は胸を刳《えぐ》って嬲《なぶ》り殺しにされるような思いがした。
 佳人と才子との恋はその後幾ほどもなく消え失せて大槻の姿は再び目黒の階壇に見られなくなった。例えば曠野に吐き出した列車の煤煙のように、さしも烈しかった世間の噂もいつとはなしに消えて、高谷千代子の姿はいま暮春の花と見るばかり独り、南郊の岡に咲きほこっている。

     十九

 その春のくれ、夏の初めから山の手線の複線工事が開始せられた。目黒|停車場《ステーション》の掘割は全線を通じて最も大規模の難工事であった。小林浩平は数多の土方《どかた》や工夫を監督するために出張して、長峰に借家をする。一切の炊事は若い工夫が交代《かわりばん》に勤めている。私は初めて小林の勢力を眼のあたり見た、私は眼に多少の文字ある駅夫などがかえって見苦しい虚栄《みえ》に執着して妄想の奴隷となり、同輩互いに排斥し合うているのに、野獣のような土方や、荒くれな工夫が、この首領の下に階級の感情があくまでも強められ、団結の精神のいかにもよく固められたのを見て、私はいささか羞かしく思うた。あらぬ思いに胸を焦がして、罪もない人を嫉《ねた》んだり、また悪《にく》しんだりしたことのあさましさを私はつくづく情なく思うた。
 工事は真夏に入った。何しろ客車を運転しながら、溝《みぞ》のように狭い掘割の中で小山ほどもある崖を崩《くず》して行くので、仕事は容易に捗《はかど》らぬ、一隊の工夫は恵比須麦酒《えびすビール》の方から一隊の工夫は大崎の方から目黒停車場を中心として、だんだんと工事を進めて来る。
 初めのうちは小さいトロッコで崖を崩して土を運搬していたのが、工事の進行につれて一台の汽鑵車を用うることになった。たとえば熔炉の中で人を蒸し殺すばかりの暑さの日を、悪魔の群れたような土方の一団が、てんでに十字鍬《つるはし》や、ショーブルを持ちながら、苦しい汗を絞って、激烈な労働に服しているところを見ると、私は何となく悲壮な感に
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