なるだろう。
 かの筧《かけい》の水のほとりには、もう野菊と紫苑《しおん》とが咲き繚《みだ》れて、穂に出た尾花の下には蟋蟀《こおろぎ》の歌が手にとるようである。私は屈《かが》んで柄杓《ひしゃく》の水を汲み出して、せめてもの思いやりに私の穢い手を洗った。
「おい藤岡! あんまりめかしちゃあいけないよ、高谷さんに思いつかれようたッて無理だぜ」
 助役は別に深い意味で言うたわけでもなかったろうけれど、私にとっては非常に恐ろしい打撃であった。ほとんど脳天から水を浴びせられたように愕然《ぎょっ》として見上げると磯は、皮肉な冷笑を浮べながら立っていた。
「お千代さんがよろしくって言ったぜ、どうも御親切にありがとうッて……」
「だって私は自分の……」
とまでは言うたが、あとは唇《くちびる》が強張《こわば》って、例えば夢の中で悶《もだ》え苦しむ人のように、私はただ助役の顔をジッと見つめた。
「君! 腹を立てたのか、馬鹿な奴だ、そんなことで上役に怒って見たところで何になる」
 私は怒ったわけじゃなかッたけれども、助役の語があまり烈《はげ》しく私の胸に応《こた》えたので、それがただの冗談とは思われなかったからである。
 私は初めから助役を快よく思うていなかったのが、このこと以来、もう打ち消すことの出来ない心の隔てを覚えるようになったのである。

     八

「ちょいと、マア御覧よ、こんどはこんなことが書いてあってよ」と一人が小さい紙切を持ってベンチの隅に俯伏すとやっと、十四五歳のを頭に四五人の子守女が低い足駄をガタつかせて、その上に重なりおうててんでに口のなかで紙切の仮名文字をおぼつかなく読んで見てはキャッキャッと笑う。
 子守女とはいうものの皆近処の長屋に住んでいる労働者の娘で、学校から帰って来るとすぐ子供の守をさせられる。雨が降っても風が吹いてもこの子守女が停車場《ステーション》に来て乗客《のりて》の噂をしていないことはただの一日でもない、華《はな》やかに着飾った女の場合はなおさらで、さも羨ましそうに打ち眺めてはヒソヒソと語りあう。
 季節の変り目にこの平原によくある烈しい西風が、今日は朝から雨を誘《いざの》うて、硝子《がらす》窓に吹きつける。沈欝な秋の日に乗客はほんの数えるばかり、出札の河合は徒然《つれづれ》に東向きの淡暗《うすぐら》い電信取扱口から覗《のぞ》いては、例の子守
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