た。
 今日は岡田が休んだので私は改札もしなければならないのだ。
 客は皆階壇を下りた、私は新宿行きという札をかけ変えて、一二等の待合室を見廻りに行った。見ると待合のベンチの上に油絵の風景を描き出した絵葉書が二枚置き忘れてある。
 急いで取り上げて見たが、私はそれが千代子の忘れたものであることをすぐに気づいた。改札口の重い戸を力まかせに閉めて、転ぶように階壇を飛び降りたが、その刹那《せつな》、新宿行きの列車は今高く汽笛を鳴らした。
「高谷さん※[#感嘆符二つ、1−8−75] 高谷さん※[#感嘆符二つ、1−8−75]」と私は呼んでいつもの三等室の前へ駆けつけて絵はがきを差し出したけれども、どうしたものか今日に限って高谷は後背《うしろ》の室にいない。
 プラットホームに立っていた助役の磯というのが、私の手から奪うように葉書を取って、すでに徐行を始めた列車を追うて、一二等室の前を駆け抜けたが、
「高谷さん! お忘れもの!」と呼んで絵はがきを差し出した。
 掌中の玉を奪われたようにぼんやりとして佇んでいると、千代子は車窓から半身を出して、サモ意外というたようにそれを受け取って一旦顔を引いたが、窓からこちらを見て、はるかに助役に会釈した。
 平常《ふだん》から快からず思う磯助役の今日の仕打ちは何事であろう、あまり客に親切でもないくせに、美しい人と言えばあの通りだ。そのくせ自分はもう妻子もある身ではないか。
 運転手は今馬力をかけたものと見えて、汽鑵車はちょうど巨人の喘《あえ》ぐように、大きな音を立てて泥炭《でいたん》の煙を吐きながら渋谷の方へ進んで行く、高谷の乗っている室《クラス》がちょうど遠方シグナルのあたりまで行ったころ、思い出したように、鳥打帽子が窓から首を出してこちらを見た。
 それは大槻芳雄であった。
 ああ千代子は大槻と同じ室に乗るために常例《いつも》の室をやめたのではあるまいか、千代子はフトすると大槻と恋に陥ったのかも知れない、千代子は大槻を恋しているに違いない。私はこう思って見たが、心の隅ではまさかそうでもあるまいと言う声がした。
 俯向《うつむ》いて私は私の掌を見た。労働に疲れ雨にうたれて渋を塗ったような見苦しい私の掌には、ランプの油煙と、機械油とが染み込んでいかにも見苦しい、こんな穢《きたな》い手で私は高谷さんの絵葉書を持ったのか。
 洗ったら少しは綺麗に
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