乗はとうとう私の生涯からすっかり消え失せてしまった。しかし、恐らく彼は黒人の細君にめぐり逢って、多分まだその細君やフリント船長と一緒に安楽に暮していることだろう。そうであってほしいものと思う。というのは、あの世では彼の安楽になれる見込はごく少いのだから。
 銀の棒と武器(註八六)とは、私にはよくわからぬけれども、多分、フリントの埋めた処にまだあるのだろう。そして確かにそこにあろうがどうだろうが私の構ったことではない。牛と荷馬車の綱とでひっぱられようとも、私はあの呪われた島へはもう二度と行かないつもりだ。そして今でも私のみる一番の悪夢は、あの島の岸にどどうっと打ち寄せている波の音を聞く時か、または、「八銀貨! 八銀貨!」というフリント船長の鋭い声が耳の中に鳴り響いて、寝床の中でがばと跳び起きる時なのである。
[#改ページ]

  註

〔買うのを躊躇する人に〕
[#ここから2字下げ、折り返して5字下げ]
一 キングストンや、…………クーパー。――「キングストン」はウィリヤム・ヘンリー・ジャイルズ・キングストン(一八一四―一八八○)。「勇者バランタイン」はロバート・マイケル・バランタイン(一八二五―一八九四)。共にイギリスの少年文学の作者である。「森と波とのクーパー」はアメリカの小説家ジェームズ・フェニモー・クーパー(一七八九―一八五一)をさす。未開拓時代のアメリカ大陸を描いた五部作、及び海洋文学をもって有名であり、それらの作品は少年の読物としても喜ばれている。二行後の「それらの人や彼等の創造物」とは、これらの作家やその作中人物のことである。前節の「置去り人」については、本文の第十五章に説明されている。
[#ここで字下げ終わり]

〔第一篇 老海賊〕
[#ここから2字下げ、折り返して5字下げ]
二 「ベンボー提督屋」。 ――ジョン・ベンボー(一六五三―一七〇二)という十七世紀末のイギリスの有名な提督の名を屋号にし、その肖像を看板にしている宿屋である。なお、この宿屋は居酒屋も兼ねているのである。
三 船員衣類箱。 ――船員が航海中に衣類その他の所持品を人れる木製の箱。船の水夫部屋の舷側にぴったり嵌るように、普通は、側が少し傾斜して、底よりも蓋の方が小さくなっている。
四 弁髪が…………。 ――往時の水夫は短い弁髪を下げていた。
五 「死人箱にゃあ…………」。――西インドの海賊のことを歌った唄の最初の二行である。第二行は畳句《リフレーン》になっている。「死人箱」というのは西インド諸島中の一つの小島の名。海賊船がその死人箱島に乗り上げた時に助かったのは僅か十五人の海賊とラム酒が少しとだけであったという。それからこの畳句が出ているのであって、畳句の方は唄の本筋には無関係なのである。第一行を水夫長が歌うと、第二行の畳句を水夫たちが合唱して、「よいこらさあ」の「さあ」に当るところで、力を合せて、錨を捲き揚げる絞盤の梃《てこ》を[#「梃《てこ》を」は底本では「挺を」]ぐいと※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]し、次にまた水夫長が歌い、合唱がそれに続くのである。
六 駅逓馬車。――宿駅と宿駅との間を定期に往復する乗合馬車。鉄道が出来る前の主要な交通機関であった。
七 ブリストル。――ブリストルはこの物語の時代にはイギリスでの第二の大きな海港であった。
八 板歩かせ。――舷から海へ突き出した板を眼隠しして歩かせ、海中へ陥って溺死させることで、十七八世紀頃に海賊が彼等の捕虜を殺すために用いた方法である。
九 ドゥライ・トーテューガズ。――メキシコ湾のフロリダ半島の南方の海上にある一群の珊瑚礁。
[#ここから1字下げ、折り返して5字下げ]
一○ スペイン海。――住時、南アメリカの北岸のカリブ海に面した地方一帯の海を漠然と指した名称。スペイン本国と当時のスペイン領アメリカとの航路に当り、昔盛んに海賊が出没した。
一一 両手を揉み絞る。――苦しみ、悲しみ、悶えの時などの身振り。
一二 髪粉。――この頃の紳士は仮髪《かつら》をつけていたので、その仮髪にふりかける粉のこと。
一三 彎刀。――この頃の船乗のよく持っていた、重い、彎曲した刀。
一四 ぶらんこ。――「ぶらこん往生」、すなわち絞殺、絞刑のこと。
一五 刺※[#「月+各」、第3水準1−90−45]針を取って…………。――昔の医術に、刺※[#「月+各」、第3水準1−90−45]と言って、血管を刺して血を出す療法があったのである。
一六 黒犬なんぞは…………。――英語の「黒犬《ブラック・ドッグ》」という語は「不機嫌」という意味でもあり、「黒犬を背負う」は「不機嫌である」、「機嫌が悪い」ということを意味する。その意味を使った洒落である。
一七 聖書に書いてある…………。――新約全書使徒行伝第一章第二十五
前へ 次へ
全103ページ中100ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
佐々木 直次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング