通って大きな台所へ入った。そこには火は消えていて、甲虫が床《ゆか》の上に跳んでいた。
「旦那さま、」と彼はアッタスン氏の眼を見ながら言った。「あれが私の主人の声でしたでしょうか?」
「声がひどく変ったようだな、」と弁護士は真っ蒼になりながらも相手を見返して答えた。
「変ったですって? まあ、さよう、私もそう思います、」とその召使頭が言った。「二十年もあの方のお屋敷に奉公しておりながら、その御主人のお声を聞き違えるなんてことがございましょうか? いいや、旦那さま。御主人は殺されたんです。神さまの御名を呼んでわめいておられるのを私たちが聞きました八日前に、殺されたのでございます。御主人の代りに誰が[#「誰が」に傍点]あすこに入っているのか、またその者がなぜ[#「なぜ」に傍点]あすこに残っているのかということは、神さまに叫ぶような恐ろしいことなのですよ、アッタスンさま!」
「それはずいぶん妙な話だな、プール。それはむしろ突飛な話だよ、なあ、おまえ、」とアッタスン氏は指を噛みながら言った。「仮りにおまえの推測どおりだとしても、ジーキル博士がそのう――そうだ、殺されたとしてもだ、その殺害者が一たい何のためにそこに残っているだろうか? そんなことはどうも辻褄が合わんな。理屈に合わないよ。」
「まあ、アッタスンさま、あなたさまを納得させるのはなかなか厄介ですが、でもそのうち納得させてあげましょう、」とプールが言った。「この一週間というものは(あなたさまも知って頂きたい)その人間だか、何だか、とにかくあの書斎の中にいる者が、夜となく昼となく、何かある薬をほしがってわめいているのでございます。そしてそれが気に入るのが手に入れられないのです。紙っきれに御自分の注文を書いて、それを階段の上に投げ出しておくというのが、時々あの方の、というのは御主人のことですが――癖でした。この週はそればっかりだったのです。ただ紙ばかり出してあって、ドアは閉めっきりで、食事さえそこに出しておくと誰も見ていない時にこっそりと持ち込む、といった風なんで。でね、旦那さま、毎日毎日、いや、一日に二度も三度も、注文や小言が出まして、私はロンドンじゅうの薬問屋を駆けずり回されているのでございます。私が薬品を持って帰る度ごとに、いつもきまって、これは純粋の品ではないから返して来いという紙と、別の店への注文が出るのでした。
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