の力に屈してしまったのであった。そして、さっき私が彼女の姿をちらりと見たのがおそらく見おさめとなるだろう――少なくとも彼女の生きているうちに二度と見られぬだろう、ということを私は知った。
その後四、五日間は、彼女の名をアッシャーも私も口にしなかった。そのあいだ私は友の憂鬱《ゆううつ》をやわらげようとする熱心な努力に忙しかった。私たちはともに画《え》を描《か》き本を読み、あるいは彼の奏する流れるように巧みなギターの奇怪な即興曲を夢み心地で聞いた。こうしてだんだんと深く親密になって、隔てなく彼の心の奥へ入れば入るほど、痛ましくも彼の心をひきたてようとする企てのすべてが無駄であることがわかった。彼の心からは暗黒が、生来の絶対的な特性であるかのように、一すじの休むことのない憂鬱の放射となって、精神界と物質界とのあらゆる事物の上に注ぎかかるのであった。
アッシャー家の主人とただ二人だけでこうして過した多くのもの淋《さび》しい時の記憶を、私はいつまで心にとめているであろう。しかも彼が私を誘い、あるいは導いてくれた研究、あるいは仕事の正確な性質を、どんなに伝えようと試みてもできそうにもない。興奮した非常に病的な想像力が、すべてのものの上に硫黄のような光を投げていた。彼の即興の長い挽歌《ばんか》は、永久に私の耳のなかに鳴りひびくであろう。その他のものでは、フォン・ウェーベルの最後のワルツのあの奔放な旋律を奇妙に変えて複雑にしたものが、痛ましく心に残っている。彼の精緻《せいち》な空想がこもり、また一筆ごとにおぼろげなものとなった、なぜとも知らず身ぶるいするために、なおさらぞっとするような画――それらの画(それはいまなお、ありありと眼の前に浮ぶが)から、ただ文字で書きあらわしえられるものをひき出そうとしても、ほんの一部分しかえられないであろう。完全な単純さによって、着想のあからさまなことによって、彼は人の注意をひき、これを威圧した。もし観念を画で描いた人があるとすれば、ロデリック・アッシャーこそまさにその人であった。少なくとも私には――そのときの私の周囲の事情にあっては――この憂鬱症患者が彼の画布《カンヴァス》の上にあらわそうとした純粋な抽象的観念からは、あのフュウゼリのたしかに灼熱《しゃくねつ》的ではあるがあまりに具象的な幻想を見つめてさえ、その影すら感じなかったほどの、強烈な堪えがたい畏怖《いふ》の念が湧き起ったのである。
友のこの幻想的な概念の一つは、それほど厳密に抽象性を持っていないので、かすかにではあるが言葉でそのだいたいをあらわすことができるかもしれぬ。それは小さな画で、低い壁のある、平坦《へいたん》な、白い、切れ目もなければなんの装飾もない、非常に長い矩形《くけい》の窖《あなぐら》または地下道《トンネル》の内部をあらわしていた。その構図のある付随的な諸点は、この洞穴が地面からよほど深いところにあるという感じをよく伝えている。この広い場所のどの部分にも出口がなく、篝火《かがりび》やその他の人工的な光源も見えないが、しかも強烈な光線があまねく満ちあふれて、全体がもの凄《すご》い不可解な光輝のなかにひたされているのであった。
病的な聴覚神経のために、絃楽器のある音をのぞいて、あらゆる音楽が彼には堪えられなかったことは、前に述べたとおりである。彼の演奏に大いに幻想的な性質を与えたのは、おそらくこのように彼がギターだけにせまく限ったためであったろう。しかし彼の即興詩を作る燃え立つような神速さ[#「神速さ」に傍点]にいたっては、同じようには説明することができない。彼の不思議な幻想曲の歌詞はもとより、その曲調も(というのは彼はちょいちょい韻を踏んだ即興詩を自分で伴奏したから)、前に述べたような最高の人為的興奮の特別の瞬間にだけ見られる強烈な精神の集中の結果であるべきだったし、また事実そうであったのだ。このような狂想曲の一つの歌詞を私はたやすく覚えてしまった。彼がそれを聞かしてくれたときそんなに強い印象を受けたのは、おそらく、その詩の意味の底の神秘的な流れのなかに、アッシャー自身が彼の高い理性がその王座の上でぐらついていることを十分に意識しているということを、私が初めて知ったように思ったからであろう。『魔の宮殿』という題のその詩は、正確ではないとしても、だいたい次のようなものであった。――
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一
善き天使らの住まえる、
緑いと濃きわれらが渓谷《たに》に、
かつて美《うる》わしく宏《おお》いなる宮殿《みやい》――
輝ける宮殿――そびえ立てり。
王なる「思想」の領域に
そは立てり!
最高天使《セラフ》も未《いま》だかくも美わしき宮の上に
そが翼をひろげたることなかりき。
二
黄なる、
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