北国の人
水野葉舟

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)佐内坂上《さないざかうへ》の

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(例)らっしゃる[#「らっしゃる」は底本では「らっしやる」]
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     一

 九月の中ごろ、ひどく雨が降った或る晩のこと。――学校を出た間もなくこれから新聞社にでも入る運動をしようと思ってる時に少し思うことがあって、私は親の家から出て、佐内坂上《さないざかうへ》[#ルビの「さないざかうへ」はママ]の下宿屋に下宿して間もなくであったが、――ちょうど九時打った頃、その某館に、どしゃ降りの最中によそから帰って来た。
 自分の室にはいって、散滴《しぶき》でじめじめしている衣服を脱いでいると、そこへここの娘のお八重が湯を持って入って来た。茶を入れてくれたり、濡れた衣服を衣紋架《えもんかけ》に通して、壁のところにかけたりして、室を片付けていたが、急に思いついたように、
「ああ、そうそう、下の荻原さんが貴方にお目にかかりたいって。」と言う。
「荻原ってどんな人だ?……おれに何の用があるだろう。」
「何の用ですか? この間からそう言ってらしたから。今夜なんぞ丁度いいわ。いらっしゃいって、そう言って来ましょうね。……それは変んな言葉つきよ。私なんぞには何言ってらっしゃる[#「らっしゃる」は底本では「らっしやる」]んだか、半分ぐらいしかわからないの。」
 たてつづけにしゃべって、獨りで呑み込んだ顔をして下に降りて行った。
 ちょっと不思議な気もしたが、そのまま待っていると、やがて、入口の唐紙を開けて、鴨居に首がつかえそうな大きな男がぬうっと入って来た。木綿の紋付の羽織を着て、田舎風のしまの着物の胸をきちんと合わせた、頭を長くのばしてぴったりと分けた、色の赤黒い、にきびのある、その顔を見ると、私は腹の中でああこの人が荻原かと思った。この人なら、大抵毎朝、洗面場で会って知っている。学生の連中はもう大抵出て行った頃、まぶしそうな眼付きをして、のっそりと顔を洗いに出てくる人だ。
 荻原はきまりの悪るそうな笑を含ませて入口に近いところに坐ろうとするから、
「まあ、もっとこっちに。」
 と坐蒲団をすすめると、
「え、え。」
 と二つばかり頭を下げて、その儘ぐずぐずしている。そこへお八重が入って来て、
「荻原さん、もっと奥にいらっしゃいよ。」
 と言うと、やっと、私の前にいざり寄った。
 私は何の用かと待ちかまえていたが、相手が何にも言い出そうとせぬから、
「何か御用ですか?」
 とこちらから切り出した。すると、一寸あわててどもりながら、
「いいえ、別に用ではないのです。」
 と言う。成程アクセントの強い、聞き取りにくい言葉だ。
 私はちょっと拍子ぬけがして、相手の顔をまじまじ見ていた。幅が広くまるい、輪廓のぼんやりした顔に、細い眠っているような目をしている。口も小さい。色が黒く、皮膚が荒い。何か重いものでも始終脊負わされて押し付けられて、育って来た人のようだ。
 私は手持ち無沙汰なのをまぎらすために、
「お国はどちらです。」
 と聞いた。すると、荻原は、
「え?…国ですか、国は花巻の方です。」
 と言ったが、私には充分に聞き取れなかった。
「どちらですって?」
「花巻。」
「え?」
「花巻。」少し声が鼻にかかる。
「え?」
 まだ聞き取れないので、聞きなおすと、きまりの悪るそうな顔をして口をつぐんでしまったが、しばらくすると、
「盛岡の方です。」
「あ、そうですか、では寒い方? そうですね。」
「え、そうです。」
 それで話がとぎれたが、話しをしていると、こっちが苦しくって仕様がない程、言葉が引っかかる。するとその度に、唇を曲げて、からだ全体に力を入れるようにする。それで自然、話がぼつりぽつりととだえ勝ちになる。
 私はまだこの男が何の用事を言い出すかと思って、その方を心では待っている。で、話がとぎれると、もう言い出すかと思って相手の顔を見る。しかし別にそんな気《け》ぶりもなく、曇った日のような顔色をして、私に見つめられると、気の毒なくらい、眼のやり場に困って、もじもじしている。――それでつい又わけもない話をはじめる。
「失礼ですが、君は学校はどちらです?」私は風采[#「風采」は底本では「風釆」]から推して大方、日本大学の法律科とでも言うかと思っていると、
「学校ですか? 学校は早稲田の文科です。」
 と言う。
「あ、そうですか、いつ御卒業です?」
「来年の春です。」
「じゃ、もうおいそがしいですね。」
「え、え。」
 話は又ぽつりと絶えてしまう。二人ともまじまじしている。私は、とうとう手持ち無沙汰に困まってしまって、何かなしに手を拍《う》って、お八重を呼んだ。ばたばたはしゃいだ足音がして、入って来て二人の顔を見ると、お八重は急にきょとんとした顔をして、膝をついたまま黙っている。
「おい、何か持って来ないか。」私は腹の中で笑いたかったが、ちょっと場合が変なので、強いてそれを押さえ付けてこう言うと、
「へえ?」
 いつになく、お八重は見当のつかぬ顔をする。
「何かを、持って来るんだよ、何だそんな面《つら》をして!」
「だって、あなた達の方がおかしいわ、にらみっくらしてるじゃありませんか。」女は心《しん》からこう言った。
「まあいいから、早く持って来い!」と言って、私は荻原の方を向きなおると、
「僕は九州で育ったもんですからね。寒い国のことはちっとも知りませんが、お国の方になると、景色なんぞも、ずっと変ってましょうね。」と言う。
「え、変っています。私の国じゃ、もう今頃からは、からっと晴れた空なんぞはめったに見られません。」
「へえ、じゃ陰鬱ですね。」私は、ちょっと眉に皺をよせる。
「陰鬱です。」
 不思議!……話がここになると荻原の眠っているような眼が、光って来る。音《おん》の促《そく》した、半分は口の中でどもってしまう、聞き取りにくい調子だが、どことなく、自ずから感に通じるところがある。……私は妙な機会から、妙な人に逢ったもんだと思った。
 そこへお八重が、菓子を持ってきたが、二人のあいだにそれを置くと、不思議そうな顔をして、ちょっと私達の顔を見て、このおしゃべりが、いつになく何にも言わずに出て行った。
「さ、いかがです。これでも此家《ここ》の例のビスケットではないから大丈夫です。食べて下さい。そしてお国の話でも聞かして下さいな。……だが、何か僕に用がおありだったのですか。それなら、その方から……」
 私はまだその用が気になっているので、こう言うと、荻原は少しあわてて、きまりの悪そうに顔を赤くした。そして何にも言わない。……また手持ち無沙汰になりそうだから、私もあわてて、
「それで、何ですか、林や森の感じなども、変ってるでしょうね。」と話をまたその方に持って行く。すると荻原は遠慮した顔をしながらも、気が乗って来て、
「胡桃林《くるみばやし》が多いのです。もすこしして、十月の中ごろになって林の中にいると、胡桃の果が枯れ草の上に、ぼたり、ぼたりと落ちるのが、実に淋しい音です。」
「私なんぞは、胡桃の林なんて見た事もありませんよ。……それはそうと変な事を聞くようですがね、お国の方では迷信がひどくはありませんか。お怪談《ばけばなし》なんぞが……前に僕は誰れかに聞いたっけ、そんな話は寒い国ほど盛んだって。」私もつい話にうかされて来る。
「盛んです。そんな話ばかりですよ。」 私が菓子を一つ摘《つま》んで食べると、荻原も心置きなく手を出して、一つ摘んだ。だんだん熱して来て、目に見えるほど、様子が変わった。
「やっぱり、陰鬱なせいかしら。」
「どうですか。国ではまだ巫女《みこ》だとか、変んな魔法を使うと言う女などがたくさんいましてね。」荻原は一直線に話を進めようとする。
「魔法?……何です、それは。」
「何ですかね、蛇だとか、いろいろな毒虫を見ると、何か呪文《おまじない》のような事を言って、すぐそれを殺してしまうのです。私の祖母《おばあ》さんもやりますよ。」
「不思議ですね、それをするのは女だけですか?」
「ええ女だけです。それも、その家の系統があるのです。」
「若い女でもやるんですか?」
「やっぱり老人《としより》の方です。」
 荻原は初めのおどおどしていた風がすっかり消えてしまった。ひとりで興に乗って来て話しつづける。その顔を見ると平常、底の底に押しこまれていた感情が一時にぱっと、上に出て来て、それに花を咲かせたようだ。
「私の家は、花巻から五里くらいもずっと山の奥ですが、A山と、B山と、C山と、三つの大きい山が周囲を取りまわしている広野です。国で一番いい時はやはり田植えごろですが。……その頃になると、私の家から、すこし隔ってB野というところに、閑古花《かっこばな》が咲くのです。それを子供たちは大騒ぎをして採りに行きますがね。」
「閑古花って何です? 彼岸花のことですか、あの赤い花の咲く。」
「いいえ、それ熊谷草、敦盛草って言いましょう、あれです。」
「ほう、そうですか、それで?」私はもうすっかり話につり込まれてしまった。
「その頃、山の麓に行っていると、夜は寝られないほど、騒がしいですよ。いろんな鳥が一時に鳴き出すもので……それに私の国では昼間鳴く鳥は少ないのですから。時鳥《ほととぎす》だとか、閑古鳥《かっこう》だとか、それからまだいろいろあります。」
「そのB野に、朝早く行くと、それはずっと夏になってですが、あさどり[#「あさどり」に傍点]って言うのがあります。山の神様のお使いだとか言って、それを殺すと崇《たた》りがあるって、皆恐ろしがっています。……あさどりって、小さい紫色をした蝶々ですよ。それがまっ黒にかたまって、山の方から高いところを飛んで行くのです。私も一度見たことがありますがね。朝早く晴れた空の方を、まるで雲が通って行くようにかたまりになって行くのは、ほんとうに不思議ですよ。」
 荻原はもうすっかり興に乗ってしまって止めどなくひとりで話しつづける。
「その山にも面白い話があるのです。その三つの山っていうのは大昔三人の姉妹《あねいもうと》だったのだと言います。一番の姉は一番いじ悪るで、未のが一番おとなしかったのです。そこで母《おっか》さんの神様が、皆でそのA山を欲しがっているから、どうかしてその末の妹にやりたいと思って、三人に、今夜お前達が寝ているうちに、箭《や》を射るから、誰れでも自分の枕元に箭の立っていたものが、A山の持主になるがいいと言って、三人の寝ている間に、そっと来て、末の妹の枕元に箭を立てて行ったのです。すると上の姉が夜中に眼をさまして、自分のところになかったので、ひどく悔しがって、こっそり妹の枕元から、持って来て自分のところに置いて知らん顔をしていました。
 夜があけて、三人は起きて見ると、箭は姉のところにあったので、末の妹はひどく泣いたのですが、仕方なしにC山に、中のがB山に別れて行ってしまったのだと言っています。
 それでそのA山は一番高い凄い山ですがね、今でも恐ろしい話がたくさんあるのです。私の国では夏の末ごろにそこに菌《きのこ》を採りに行ます。そしてよく山に小屋掛けをして、そこに寝ると、夜中にきっと、怪しいことがあるのですね。時はきまっていますが、真夜中になると、山の中が、ぽーッと、まるで月でも出たように、どこからか薄明りがさして来て、そこらが青みがかって見える。と思うと、谷を隔てた遠くの方で、澄んだ女の声で、さもねむくなるような調子で、歌を唄い始めるのです。それに聞きとれていると、突然そこらで、ぎゃあーっ[#「ぎゃあーっ」に傍点]と女のけたたましい声がして、その薄明りがばったりと又もとの暗になってしまうのです。……私の村のものなどは、大抵[#「大抵」は底本では「大低」]こんな目に逢っています。」

 荻原の目に、陰鬱な火のような表情があらわれた。心が燃えて、烈しく慄えるようすが見える。その話もごつごつしていながら、そのうちに自ずから抑揚
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