の調子が出て来て、人を魅する力がこもっている。彼は感情の高まった声をして、
「その山では、私の家によく来る隣村の猟師がこんな目に逢ったこともありますよ。夜待《よまち》と言って、夜中、山に籠って猪を撃つことがありますが、それに行っていると、もう夜明けに近いと思うころに、山の頂上《いただき》の方で、
あ痛あッ! という声が一声聞えたそうです。それが家にいる老母の声だったので、留守に何か悪いことがなければいいがと思って。夜が明けるとすぐ大急ぎをして帰って来て見ると、家では梁《はり》にさげてあった鉈《なた》が落ちて、その母《おっか》さんが死んでいたそうです。それが丁度その声の聞こえた頃だったとか言うので、その男は猟師を止めてしまいました。」
「それからまだこんな話もあります。」と言うので、荻原は思い出しては、追っかけ追っかけ自分でも夢中になって話しつづける。
それで思わず夜が更けてしまった。私もつり込まれて聞いていたが、ふっと気がつくと、下ではもう寝静まっている。雨はまだやまないと見えて、ざあざあ、まっすぐに烈しい音をさせて降っている。
私が不意に、外の音を聞くような顔をすると、荻原は話しかけた話をぱったり止してしまって、不思議そうに、
「何ですか?」
と聞く。
「いいえ、何でもないが、雨の音がひどいですね。」
と言うと、これもにわかに気がついたように外の音を聞く。すると、急に襟元が寒いような風をして、ちらとおびえた顔付きをすると、
「私だって変なものを見たことがあります。」
とおぼえず口走ったが、あとから、妙に疑り深い目をして、私を覗うように見る。……そのくせ、私が気の付かない顔をすると、また興に乗って来て、その話をしゃべってしまった。しかもその人にとって、大した秘密の籠っている話でもなかった。
二
その晩、とうとう話しくたびれて、荻原が二階を降りたのは、かれこれ朝の二時ごろであったろう。別に用らしい話は少しもなかったところを見ると、このような性質の人で、話相手が欲しかったのかもしれない。私は寝床の中に入ってからも、不思議な感情を持っている男だと思った。
次の朝起きると、はたして、私と同じくらいまで寝ていたと見えて、洗面場でぱったり出くわした。荻原は私の顔を見ると、にやりとしたが、私が、
「や、昨晩は。」
と言うと、何かきまりが悪そうな、眼付きをして、
「どうも、ひどく遅くまで話しまして……」
と、やっとの思いで言ったように顔をそらしてしまった。それを、朝飯を一緒に食おうと言うので無理に二階に引っぱって来ると、くることは来たが、昨晩の興に乗った調子がなくなると、又もとの通りで、日向に出たのがまぶしいように、薄暗い曇った顔をしてぽつりと坐って、黙っている。
私が話しかけても、はかばかしく返事もしない。ごく人の好い人だとは思うが、何を考えているのだか、すっかり、その心持ちがわからない男だ。
私もひどく急がしくなかった頃なので、暇さえあれば、荻原と一緒にめしを食って、荻原の郷里《くに》の話を聞いた。それでほとんど大抵の時は一緒にいるほど、親しくなったが、荻原にはどことなく、疑り深い、かたいじなところがある。疑り深いと言っても、荻原のは、進んでぱっと華やかに、人を信ずることができないので、いつまでも、おずおずしていて、自分ばかりを守ろうとするのだ。そうかと思うと、不思議にも一方には、ひじょうに強く自分に執着するところがある。そして、いつでも陰鬱で、血が濁っているようだ。
一緒にめしを食っていても、荻原から話しかけることはめったにない。これでどうして、一面識もない私に逢おうなどと思ったろうと思われるほどだ[#「だ」は底本では「た」]。
私は、新聞社の口が定らないので、しばらくのうちと思って、学校の先生が主幹している、或る経済雑誌の外国新聞の翻訳を受持つことになったが(私は早稲田の経済科の卒業生だ。)ふだんは家にいて、それをやっている。と、荻原は大抵わきに来て黙って坐ってレヴュー・オブ・レヴューの文学欄なんぞを、ひっくり返えして見ている。そのうちに、私も少し倦んでくると、
「面白いことでも書いてあるかい?」
ときくと、
「さあ……」
と言って、その雑誌をつき出す。もうしまいには言葉なんぞも、すっかりぞんざいに成っていたが、それはどちらかと言うと、私の方だけで、荻原の方はまだそう手軽には行かないのだ。そうして、何となく話をしていると、ときどきは珍らしく荻原の文学論が出る。
荻原のは明らかにそれを指すものはないが、生存と言うことに向って、強い恐れを持っている、一種の霊魂教の信者だ。そして絶間《たえま》なしに空想から妄想の中をさまよっている。……かと思うと、夢のうちにでも見るような、とりとまりのない、美くしい色彩のある感情にあこがれている。……こういう風の一種の神秘主義だ。烈しい、透明な信仰[#「信仰」は底本では「信抑」]にはなっていないが、しかし、どこか心に根の張った感情で、いつも議論さえすれば、そこに落ちてしまう。それが、聞いていると、何となく薄暗い冷めたい空の下から、うつらうつらと南国の深碧の空にあこがれて、その花の色、緑葉《みどりは》の香に、心が引き寄せられているようでありながら、しかも、目には肌の氷のような、声の細い胸を射透《いとお》すような、女怪の住んでいる、灰色の空、赭いろのくすんだ色をして、すっかり落葉してしまう森、すべて鈍色《どんしょく》をして、上からおしつけようとしているものばかりが見える北国に生まれて、その冷めたい空気を吸って育った人だ。荻原はどこまで行っても空想の人だ。
気の毒なことに、とは思うが、或いはその嗜好から、特に選んだのか、荻原のいる室は西向きで、昼間でも薄っ暗い。その室には小さな書棚が、右の方の壁のところに置いてあって、それにくっ附けて、赤や紫で、しつっこい、ごちゃごちゃした模様の唐更紗《とうさらさ》の机掛けがかかった、中ぐらいな大きさの机が置いてある。机の上は筆立てやら硯やらで、狭くなっているが、その狭いところから、例の机掛けの花模様が毒々しく、この室に一種の光を放っているようだ。壁には脱ぎすての衣服や袴が二た所三と所掛かっている。――この室の主人は朝おそくまで、室の戸をしめて寝ているが、やがて鬱陶しそうに目を開くと、もじゃもじゃ[#「もじゃもじゃ」に傍点]になって、額に垂れかかる、長い髪をうるさそうに手でかきあげながら、枕元の新聞を取って読みはじめる。散々床の中でもごついて、続けざまに欠伸《あくび》を二つ三つすると、ようよう起き上ることは起き上るが、それで顔を洗うまでに先ず机の前に坐って、ぼんやりして見る。顔を洗って来ても、半日は机の前に坐ったまま、何にもせず、何にも考えずに、まじまじしていることが多い。かと思うと、ぷいと家を飛びだして、一日そこら中、うろついて歩く。そんな時にでも彼の顔は、じっと底に沈んで、鬱しているので、心が華やかに動くとも思われない。
歩く時には、肩を上げて、まるで高竿がひょいひょい行くようだ。からだに柔かみがないせいか。しかし顔を見ると血が重くおどんでいるようで、深みもある。何かちょっと判断のつかぬものが隠れているようでもある。
しかし彼は、淋しい人である。華々《はなばな》しい、浮々した都会の空気は、とうていこの北国生まれの空想家の心臓を乱調子にせずに置くまいと思われる。……その中に秋も十月の末ごろになると、風が恐ろしく荒くなって、空が今晴れたかと思うと、見る間に一面灰色になってしまう。その頃がくると荻原は気でもちがわねばいいがと思うほど、その顔が曇って沈んで、そしてじれて、傍《そば》からはとても慰めることができないほどに、その胸の中の思いに弄ばれている。
いつも淋しい顔をして、ぽつねんと一方を見つめて、坐っているか、さもなくば、朝も昼もなく、布団をひっかぶって、ぐうぐうねている。そして、夕方になると、急に目をさまして、ぶらりとどこかに出かけて行く。あまりいつもいつも眠っているから、ゆり起こして、
「いくらねたらいいんだ?」
と聞くと、さもねむそうな眼をあげて、余計なことをするっていう顔付きをしながら、
「ああねむい!」
と言って大きな吐息をつく。そして一向学校にも行く様子がないから、なぜかと聞くと、学校の方は今年は一年遊ぶのだといって平気な顔をしている。
ある時に、用があってその室に行って見ると、もう日が落ちてしまったのに、室の中はまっくらだから、いないのかと思って開けた唐紙を閉めようとすると、机のわきに黒いものが、うごめくと、突然、
「私はここに、いたんですよ。」
と声をかけた。
「じゃ燈火《あかり》でもつけ給へ、どうかしたのかい。」
と言いながら入って行くと、暗の中に目がきらっと輝いたようで、荻原は太い急《せ》わしい呼吸をしている。
ランプがパッと着くと、荻原は今まで、柱に倚りかかっていたらしく、その顔には名状しがたいような、哀愁を含ませている。見ると涙ぐんでいるではないか。
「どうかしたのかい?」
「ああ、国のことを思ってるうちに、すっかり夜になってしまった。」と獨語《ひとりごと》のように言う。
と思うと、左の手に何か持って、それを隠そうとする。
「何だい! それは。」私はいち早く見つけて、つき込むと、仕方なさそうに、出して見せる。尺八だ。
「君はそれを吹くのかい。」
「吹くと言うほどじゃないけれど、国にいる時分に少し習ったから……」
「じゃ、それを吹いて故郷を思っていたと言うわけだね。」少し茶かしてかかると、荻原はからだの奥から沁み出すような声をして、
「いや、私はたまらなくなるから吹くのです。しかし吹くとなおたまらなくなってしまう。故郷《くに》の景色が目に見えるようで……」と言って、堅く口をつぐんでしまった。
「そんなことをこの薄暗い室の中で思っているとなおひどくなるから、外に出て見よう。そして気でもまぎらし給え。」
と言うと、荻原はむっつりして、やはり沈んでいたが、私が促すのでいきおいのなさそうに立ち上ってそれから神楽坂《かぐらざか》の通りの方に出た。
曇って、雲が低く、空は真暗だ。町の中をときどき、砂を巻き上げて、風が吹いて通る。しかし、その位なことで賑やかな神楽坂の通りは、燈火《あかり》一つ少くなりはしない。夕方帰りの人や、買物の人や、まだひどく寒くはないから気楽な散歩の人もちらほら見受けられる。
両側の店の燈火はまだまだ、淋しいなどという心持ちは少しもない。
近所の寄席では、楽隊が上調子な譜《ふ》をやっている。……私達はそこの角までくると、なんと思ったか、荻原は往来の角に突っ立って、黙って町の賑やかさを眺めている。私は横から、
「おい!」
と声を掛けたが、荻原は返事もしないで、やはり突っ立っている。
それを見ると、私はひどく感に打たれた。丈の高い、茫とした、この賑やかな、はしゃいだ調子とは、まるで心臓の鼓動が調和しない男が、悲しそうな顔、むしゃくしゃ[#「むしゃくしゃ」に傍点]した顔をして傍観している。
傍観者! 不調和!――この言葉だけでも悲しむべき運命の暗示がある。
三
その年の十二月半ばころ、私はやっと道が開けてA新聞の記者に採用された。それでいろいろな便宜上、もう一つは、もうドライな下宿生活には、心底、おぞげをふるって、いやになったので、麹町の方に小さな一軒を借りることにして、引き移った。
すると、荻原は始終私の家へ入り浸りに来ていた。ところが或る晩、新聞社から帰って見ると、相変らず、留守の婆やをつかまえて、話し込んでいるから、
「今日も相変らずだね。」
と言うと、
「や、急がしいのですか。」
と言って臆病らしい目付きをする。
「いそがしいさ、君も働かなくっちゃいけないよ。」私は何気なく言ったのだが、荻原は何かひどく、気に触わったと見えて、急に帰ってしまった。
それからぱったり来なくなった。こっちも仕事に逐《お》われて、いつの間にか一と月
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