許りは経ってしまった。……ちょうど二月の中頃にもなっていた。或る晩のこと、もう夜の十一時すぎだ。私は新着のエコノミストをひっくりかえしていると、その時に玄関があわただしく開いた。よほど急いで来たらしい人の気配だ。はてなと思って、聞き耳を立てると、その儘案内もなく、すっと障子を開けて上って来る。変だと思うので、立って行って、唐紙を開くと、であい頭《がしら》に、荻原がぬっと立っている。
「君か。」私は驚かされたので、中腹で鋭く言うと、荻原は肩で息をしていて、ろくに口も聞けないようすだ。
「まあ、入りたまえ。」
 と明るいところにつれてくると、顔色がひどく青ざめて、目が神経的に鋭くなっている。息づかいがせわしい。
「どうした?」私は二度目に驚いてこう言った。
 荻原は黙っていたが、しだいにうなだれてしまう。と思うと、急にうしろを向いて、そこの唐紙が少し開いているのを、あわてて閉めに立った。……素振りがただならぬので、私は、
「どうしたのだ?……そんな真似をして。」
 と、しかるように言うと、荻原はほっと吐息をして、
「今、妙なことに出っくわしてね。」
 と言うかと思うと、にわかに眼を据えて、恐ろしそうに身慄いをする。
「うむ。」私はその気合いにのまれて声をひそめると、
「幻覚ってものは君、二人一緒でも見られるものかね。」
「分らないな。君が見たって言うのかい。」
 荻原は、私の言葉を聞いているかいないか、うなされるように、口の中でくどくどと、
「人の怨み、そんなことはないだろうが、やっぱり何かな……」とつぶやいていたが、にわかに声を明瞭《はっきり》させて、
「幻覚です。私は今夜幻覚を見たのです。」
 と言って、淋しそうな、神経的な、笑い方をするから、
「どこで?」
 と聞くと、
「どこって、何んでもないんですがね。」といやに知らん顔をする。
 その素振りがいかにも白々しいので、私はむっとした。すると、荻原は急に「実はこうなんですがね。」と、苦しそうな顔をしながら、弱々しく話し出す。
「今夜少し話があって、知り合いの女の人と、小石川のP神社のところに行ったのです。あすこは君、古い木が繁って真暗でしょう。」彼はふっと語を切ると、ほっと吐息をついて、
「社殿《やしろ》のわきのところまでくると、そこの木の根に腰を掛けていました。」
「そこで見たのかい?」
「ええ。」とうなずいて、
「すぐ頭の上の枝のところで、ぱっと光り物がしたと思うと、二人とも一緒に、同じ人の顔を見たのです。」
 言ってしまってがっかりした顔をする。
「それで今夜はここに泊めて下さい。」
 と哀願するように言う。
「それは泊めるとも!…泊めるからね、まあ心持ちを落ち付けたまえ。」と慰めると、彼は心の疲れた顔をして、
「小石川からここまでくるうちに、今にも殺されるかと幾度思ったか。」
 と独り言を言う。……上唇がふるえていて、しばらくはからだの筋肉が、悉く固くなってしまったように、節々に力こぶを入れていたが、それがここにたどり着いた安心と、燈火《あかり》で明るい室に入ったのとで、次第にゆるんでくると、疲れた眠そうな顔になる。
 私もそれよりほかに何にも、追窮しなかった。

     四

 それからは、荻原の素振りが少し変って、妙にうたぐり深く、私の心をさぐろうとする。私が何か彼の秘密の鍵をにぎっていはしないかと言うような心持ちがするらしい。
 ところが、江戸川の桜が満開になった頃だった。私ははからずも、荻原が恐れていた、彼のその秘密の鍵を握ってしまった。
 小石川の荻原の下宿で夜を更かして、帰ってくるのを、荻原が送ると言うので、江戸川までくると、夜更けて、花の陰に店を出している、大道易者がいたのを、冷やかす気で、見て貰うと、易者は何と思ったのか、荻原の顔を見て、
「あなたには女難がある」と言った。すると荻原はぐっと胸をつかれたと見えて、殆んど狂気《きちがい》のように、その易者に、
「ほんとですか、それはほんとですか。」
 と哀願するように言う。私は驚いて、ぐいぐい引き立てて来たが、荻原はもう気がくたくたになっていて、泣き出しそうな声で、私をつかまえて、すっかり自分のことを話してしまった。
 荻原は意外にも絶えず女に関係していた。少し前に見た、幻覚もそのため。……荻原は私を送ると言って私の家にくるまで、いくつも相手のちがっている、その恋の物語をした。そしてその晩は泊って行った。
 そのうちに彼はふと、自分の室にいると、まざまざ知らぬ男の顔を見ると言って、それにひどくなやまされていたが、急に激しい心臓病にかかって、国に帰ってしまった。
 国に帰ってからは、ただ煩悶々々と、当てのわからない、苦痛を訴えた手紙を繁々とよこしている。



底本:「遠野へ」葉舟会
   1987(昭和62)年4月25日発行
入力:林 幸雄
校正:今井忠夫
2004年2月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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