付きをして、
「どうも、ひどく遅くまで話しまして……」
 と、やっとの思いで言ったように顔をそらしてしまった。それを、朝飯を一緒に食おうと言うので無理に二階に引っぱって来ると、くることは来たが、昨晩の興に乗った調子がなくなると、又もとの通りで、日向に出たのがまぶしいように、薄暗い曇った顔をしてぽつりと坐って、黙っている。
 私が話しかけても、はかばかしく返事もしない。ごく人の好い人だとは思うが、何を考えているのだか、すっかり、その心持ちがわからない男だ。
 私もひどく急がしくなかった頃なので、暇さえあれば、荻原と一緒にめしを食って、荻原の郷里《くに》の話を聞いた。それでほとんど大抵の時は一緒にいるほど、親しくなったが、荻原にはどことなく、疑り深い、かたいじなところがある。疑り深いと言っても、荻原のは、進んでぱっと華やかに、人を信ずることができないので、いつまでも、おずおずしていて、自分ばかりを守ろうとするのだ。そうかと思うと、不思議にも一方には、ひじょうに強く自分に執着するところがある。そして、いつでも陰鬱で、血が濁っているようだ。
 一緒にめしを食っていても、荻原から話しかけることはめったにない。これでどうして、一面識もない私に逢おうなどと思ったろうと思われるほどだ[#「だ」は底本では「た」]。
 私は、新聞社の口が定らないので、しばらくのうちと思って、学校の先生が主幹している、或る経済雑誌の外国新聞の翻訳を受持つことになったが(私は早稲田の経済科の卒業生だ。)ふだんは家にいて、それをやっている。と、荻原は大抵わきに来て黙って坐ってレヴュー・オブ・レヴューの文学欄なんぞを、ひっくり返えして見ている。そのうちに、私も少し倦んでくると、
「面白いことでも書いてあるかい?」
 ときくと、
「さあ……」
 と言って、その雑誌をつき出す。もうしまいには言葉なんぞも、すっかりぞんざいに成っていたが、それはどちらかと言うと、私の方だけで、荻原の方はまだそう手軽には行かないのだ。そうして、何となく話をしていると、ときどきは珍らしく荻原の文学論が出る。
 荻原のは明らかにそれを指すものはないが、生存と言うことに向って、強い恐れを持っている、一種の霊魂教の信者だ。そして絶間《たえま》なしに空想から妄想の中をさまよっている。……かと思うと、夢のうちにでも見るような、とりとまりのない、美くしい色彩のある感情にあこがれている。……こういう風の一種の神秘主義だ。烈しい、透明な信仰[#「信仰」は底本では「信抑」]にはなっていないが、しかし、どこか心に根の張った感情で、いつも議論さえすれば、そこに落ちてしまう。それが、聞いていると、何となく薄暗い冷めたい空の下から、うつらうつらと南国の深碧の空にあこがれて、その花の色、緑葉《みどりは》の香に、心が引き寄せられているようでありながら、しかも、目には肌の氷のような、声の細い胸を射透《いとお》すような、女怪の住んでいる、灰色の空、赭いろのくすんだ色をして、すっかり落葉してしまう森、すべて鈍色《どんしょく》をして、上からおしつけようとしているものばかりが見える北国に生まれて、その冷めたい空気を吸って育った人だ。荻原はどこまで行っても空想の人だ。
 気の毒なことに、とは思うが、或いはその嗜好から、特に選んだのか、荻原のいる室は西向きで、昼間でも薄っ暗い。その室には小さな書棚が、右の方の壁のところに置いてあって、それにくっ附けて、赤や紫で、しつっこい、ごちゃごちゃした模様の唐更紗《とうさらさ》の机掛けがかかった、中ぐらいな大きさの机が置いてある。机の上は筆立てやら硯やらで、狭くなっているが、その狭いところから、例の机掛けの花模様が毒々しく、この室に一種の光を放っているようだ。壁には脱ぎすての衣服や袴が二た所三と所掛かっている。――この室の主人は朝おそくまで、室の戸をしめて寝ているが、やがて鬱陶しそうに目を開くと、もじゃもじゃ[#「もじゃもじゃ」に傍点]になって、額に垂れかかる、長い髪をうるさそうに手でかきあげながら、枕元の新聞を取って読みはじめる。散々床の中でもごついて、続けざまに欠伸《あくび》を二つ三つすると、ようよう起き上ることは起き上るが、それで顔を洗うまでに先ず机の前に坐って、ぼんやりして見る。顔を洗って来ても、半日は机の前に坐ったまま、何にもせず、何にも考えずに、まじまじしていることが多い。かと思うと、ぷいと家を飛びだして、一日そこら中、うろついて歩く。そんな時にでも彼の顔は、じっと底に沈んで、鬱しているので、心が華やかに動くとも思われない。
 歩く時には、肩を上げて、まるで高竿がひょいひょい行くようだ。からだに柔かみがないせいか。しかし顔を見ると血が重くおどんでいるようで、深みもある。何かちょっと判断のつか
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